たとえば、歩行機能に問題のあるおじいちゃんが「一人で散歩に行きたいとおっしゃいました。」どうしますか?

はじめに

守りたいものがいくつかあったとき、同時にそれらを守ることが矛盾を引き起こすことってたくさんあるように思います。

たとえば、積極的に外には出したくないけれども、おじいちゃんおばあちゃんの世話や介護には協力的な家族というのは結構いらっしゃるのかなあという気がします。

よくあるテーマだとは思いますが、ちょっと考えてみたいとおもいます。

家族の思い

本人が一人で行動することになんらかのリスクを覚えている場合には、家族がその人の行動範囲を制限することは現実的な選択肢の一つです。

場合によっては、一人で近所の散歩に出歩くことを制限する場合だってあると思います。

そんな、当時者がやりたいと思っていることを制限する家族の思いは、当人にけがをしてほしくないという思いがあるのではないかと思います。

本人のことを思えばこそ、本人がやりたいと思っていることでもさせることができないというもどかしさは、支援を直接的におこなう立場の人間が誰しも一度は感じることなのではないでしょうか?

そして、それを埋め合わせるかのようにほかの場面では、かいがいしく本人の世話をすることもあるのではないかと思います。

たとえば、認知症や整形疾患の患者様が一人で外出するのを制限するけれども、介護には熱心という家族にいはこんな感じの背景があるのではないかなあと推測しています。

本当は誰のため?

しかし、それだけではいけないよねというのが、往々にして作業療法士としてのひろえもんの考えです。

矛盾を解決するには、物事に優先順位を決定して、優先的に取り組むことを明らかにしていけばいいと思います。

その優先順位をつける際に使える物差しが、「何がその人のためか」ということだと思います。

そして、たえとばこのケースについて、「何がそのひとのためか」を考えるのであれば、どうやったら、一人でも散歩に行けるかを検討することになると思います。

なぜなら、その人が「散歩に行きたい」とおもい、それが実現できることには、その人にとって大きな意味があるはずだからです。

「ひとりで散歩に行くこと」がその人の生きがいだったとしたら、その人が散歩をしないことは、何を意味するでしょうか。

たぶん、大げさに言うと、その人から生きる意味をはく奪することになると思います。

その人にどうなってほしい?

一人でできないことをやりたいと望む人と向き合うとき、どんな結論に落ち着くかは、畢竟その人にどうなってほしいかということなんだと思います。

ただ、その人に長らえてほしいのか。

それとも、そのひとがいい感じで人生のゴールに向かっていくための支援がしたいのか。

大切なのは、そこなんじゃないかなあと思います。

ヒトとして、生物として生きるだけでなく、一個人一人の人として、あるいは、社会的な存在である人間として、人生の最後までどうあってもらうのかというところが、支援を行っていくうえでの出発点なのではないかなあと感じています。

何がご本人さんのため?

自分自身がどうありたいか、何をしているときに幸せを感じることができるかということをうまく言葉にできないひともたくさんおられると思います。

また、なかなか本音を言い出すことができなくて、つい思いとは裏腹な言葉を述べてしまう方もたくさんおられると思います。

そういった方たちも含めて、「できない」ことを「やりたい」といわれる方々にはどのように向き合うべきだろうと、

日々なんとなくなやんでおります。

ご本人さんがやりたいことを、現実的な制約の中で、実現するその選択肢として、クオリティの高いものを提案できるためには、どうしたらいいでしょうか。

ひろえもん的には、「まずその人にどうなってもらいたいのか」というゴールを出発点にして、それに向かって考えを進めていけばいいのだろうなと思います。

そしてたとえば、その人に笑顔で過ごしてもらいたいのであれば、その人が笑顔になれるような、そんな作業が提供できたらいいのかなとおもいます。

おわりに

タイトルのような出来事がもしもあったら、電動歩行器を本人さんに進めるかもしれません。

座位保持が安定していたらの話ですが。

そして、その人が散歩に求めるものにもよりますが。

進行性疾患患者の言いたい事を理解できなかったという苦痛について

はじめに

いわゆる難病というものにひとくくりにされるものには、症状が進行するにつれてコミュニケーションの障害が立ち現れてくる物があると思います。

具体的にそういう場面に出くわすこととなり、その体験が自分の無力さ加減を浮き彫りにしましたので、ぜひ共有できればと思います。

小脳変性症的疾患

決して数の多い疾患ではないですが、作業療法士養成過程における力の入れ具合はそれなりではないかとおもいます。それは、ひとえにこの疾患が、本人とその周囲に非常にたくさんの出来事を巻き起こすからではないでしょうか。

笑顔が素敵な優しいSさん

自分が、入社してすぐにおつきあいがあった患者さんの一つです。フロアなどで自分がやらかしたときには、発語が難しいので、優しい笑顔で「うんうん」とうなずいてはげましてくださったものでした。

時には、片言ながらも話しかけてくださり、会話をして楽しませてくださる事もありました。

症状が進行

いろいろイベントが忙しくしていた生もあり、最近、作業療法室にて顔を会わせることがすくなくなっていました。

今日、病棟に行ってみて、久々に会って驚きました。

ずいぶんと違う印象のSさんがそこにはいました。ベッドから体を起こす事はできず、1語ごとの発語はあるものの、まったく単語につながらず、聞き取る事ができませんでした。

腕は動かす事ができるので、指差したりなど限られた動作を駆使してジェスチャーなどでこちらに意図を伝えようとしてくださるのですが、Sさんのいいたい事が全く理解できませんでした。

申し訳なさ

相手は切々とした表情で自分の言いたい事伝えたい事を、こちらに訴えます。

可能性のありそうな事について、一つ一つこちらが言葉にして問いかける形で、確認を行い内容の特定を試みましたが、最終的に理解ができきませんでした。

理解できないふがいなさを、ただSさんに詫びる事しかできませんでした。

自助具について

コミュニケーションボードなどあれば、いいのかなあと思いました。

また試してみたいと思いますが、ほかにこんなものがあればいいのではないだろうかという案がある方はぜひ、アイディア頂けると嬉しく思います。

コミュニケーションがはかれないもどかしさについて

相手が自分に一生懸命伝えようとしている分、こちらも一生懸命になります。お互い一生懸命なのに、意味のやり取りができなかったのは、自分にとって非常につらい体験でした。Sさんはもっとつらかったと思います。

この苦痛が軽減できるような支援ができたらいいなあと思います。

おわりに

病棟に行く用事があり、その時にSさんの様子をたまたま知る事ができました。

時間の許す限り、まめに病棟に足を運ぶことも大切だと思いました。

個人的に、祖父が孫に暴力を振るうような家族関係が実在するという事実が受け入れがたい

はじめに

いたたまれない気持ちになりました。

家族が崩壊している家庭は、確実に存在するという現実を突きつけられた気分です。

記事内容

孫の男児(3)に殴るけるなどの暴力をふるって、打撲傷を負わせたとして、香川県警三豊署は19日、三豊市の無職の祖父(45)を傷害容疑で逮捕した。

 発表によると、祖父は14日午後6時30分頃、自宅で尿を漏らした孫に腹を立て、顔を殴るなどの暴行を加え、25日間のけがを負わせた疑い。

 男児は母親(23)と姉(5)の3人暮らし。母親は仕事に行く際、2人の子どもをアパートの階下に住む独り暮らしの祖父に預けていた。母親が、市子育て支援課や同署に相談していた。調べに対し、祖父は「暴力をふるったことに間違いない」などと供述しているという。

(2013年4月20日14時42分  読売新聞)

おもったこと

そもそも45歳祖父ってところにすでに違和感がありました。

いや、べつにおかしくはないのかもしれないですが、でもしかし、やっぱり50代とかが多いのかなというような気がしているので、その辺、やっぱり違和感が。

偏見なのはいなめませんが、きっと、自分が思っているような背景はあるんだろうなという気がしています。

働き盛りのはずの40代で、無職。

なんとも言えないです。

おわりに

前々から言われているように、高度成長期以降の個人主義は、それまでの家族像を一変させているという別の側面を持っているということを、改めて実感させられる、何とも言えない内容でした。

精神科において、作業療法士が関わる患者様が抱えていらっしゃる問題には、本人の疾患の問題のみならず、家庭内における人間関係が問題となっているような場合が、かなり多くみられます。

しかもそういった問題は、経時的におおくの時間を積み重ねて、かなり根の深い問題に発展してしまっている場合が多く、なかなか簡単に解決することは困難です。

そういうことになる前の予防的な支援が大切なのかなあとか、少し考えさせられました。

また、時間的余裕があれば、後日、この家族にはどのような支援が有効で、必要なのかについて考えてみたいと思います。

対象者の人生の文脈を踏まえた有意味な作業の、素敵な例のご紹介

はじめに

リハビリテーションを支援するときに、作業療法士は作業を用いて患者様を支援します。

この時に大切にしなければならないことがあります。

ある人が、今までにどんな人生を送ってきたか。

どんなことが好きで、何に慣れ親しんでいて、どのような習慣を持っているのか。

こういったことに着目することにはとても意味があります。

「有意味であるという事」の意義

諸事情により、難しい場合、場面も多々ありますが、提供する作業には、支援の対象となるご本人の希望が極力取り入れられているべきと、考えます。

リハビリテーションの主体であるその人が、笑顔になれるし、リハビリテーションへの活力へとつながるからです。

その具体例としてのん様(@onitree)のツイートがとても素敵でした。ご紹介させていただきます。

対象者の方、なぜ、笑顔になったのでしょうか?

もちろん、のん様(@onitree)のセッティングとか、話の運び方が素晴らしいというのは間違いないので、それは前提。

それは、ご本人の希望が、自尊心が満たされる、「したいことができた」という体験があるからだと、ひろえもんは考えました。

その人の「したい!」「やりたい!」という希望を引き出し、踏まえた活動を提供することが同時に、治療的にも、リハビリテーション的にも意義の大きなADL動作へとつながっていて、素晴らしいと感じました。

こうした支援ができる作業療法士を目指したいと思います。

おわりに

そのひとが何を大切に思っているのか。

その思いが反映されるとき、素敵な作業療法が提供できるんだな、と感じさせていただきました。

最後に、のん様(@onitree)、快くツイートの使用を許してくださり、ありがとうございました。

3.11震災後2年目の節目に被災地復興が進まないという問題点について想い、考えるコト (1)

はじめに

東北が立ち直るためには、まだまだ時間が必要だけれども、時間が癒すのを待っていたら、廃用症候群に陥ってしまうというジレンマが最大の問題点だと思うという話です。

長くなりそうなので、記事をいくつかに分割して書いてみます。

まず、東日本大震災から2年がたった今、一体、何が問題なのでしょうか?

というところに焦点を当ててみます。

テレビの3.11特集

ここのところ、毎日3.11特集ばかりです。

「これは!」という内容がある一方で、視聴率が取れるからという醜悪な理由で番組を構成しているものもあり、まさに玉石混淆。

(夏の戦争特番にも思う事なのですが、年間を通してぱらぱら定期的にやってくれた方が、視聴者は長期的な視点が必要な問題だという事を日常的に意識できていいと思うのですが。)

さておき、ここのところ、毎日のように、番組のコーナーで3.11についての番組が組まれています。

もっともテーマとなっているのが、

「復興の遅れ」

です。

こうしたテーマの番組は、震災後、なかなか復興が進まない現実をとりあげ、それがなぜ進んでいないのかについて、それぞれの視点から分析をしたり、復興が進まないことについてどう思うかということを、地元の避難民の方々に尋ねたりという構成の番組が比較的多かったように感じました。

なぜ復興が遅れているのか

そうした番組をみて、なぜ、なかなか復興が進まないのかについて思ったことがいくつかありました。

いろいろあったんですが、主要なものは以下の通りです。

1)心理的ダメージ

まず、一つ目は、まだまだ心理的な衝撃から回復できていない人々がそうとういらっしゃるのだということです。

震災から2年が経過しました。

いまだに家族の遺体を捜索し続けていらっしゃる方、亡くなった家族が使っていた部屋が、震災直後から、手つかずで整理されないままになっていたり。

周囲が、復興を唱えたところで、なかなか新たな一歩を踏み出すことができないでいる様子が見えました。

2)放射能

二つ目は、「放射能」というモノがさまざまな影響を及ぼしているという事でした。

放射能の風評によって、線量が基準値からほどとおいものであってもなかなか売ることができない農家の方々。

「放射能」が恐ろしくて、外に出るのがはばかられるという人。

小さな子供と一緒に暮らしており、子供たちへの影響を気にして、その土地へ戻ることができない家族。

そして、原発の後始末にあと30~40年もの歳月が必要になるという専門家の予測。

「放射能」は、先が見えない不安の一つになっているんだなあということが感じられました。

3)取り上げられた主体性

3つ目は、復興が進まないという意見が沢山聞かれたことです。

多く聞かれた、この、「復興がすすまない」という意見に違和感を感じました。

なぜなら、復興の主体が、地元の人々から切り離されてしまっているかのように感じられる発言だったからです。

復興は、地元の方が主体的に進めるモノであって、がやの人間達にはそれを支える事しかできないのが、本当のところだと思います。

そうでなければ、それは形だけ取りつくろった復興もどきであり、周囲の支援がなくなってしまったあと、きっとそのシステムは崩壊してしまうでしょう。

支援が無くても、回っていくような社会基盤や、経済、インフラ、そういったものを形成していくには、地元の人々の活躍がとても重要で、欠かすことのできないものです。

そうでなければ、外から入ってきた人や物、カネが引き上げたときに、その土地のさまざまなものがボロボロの、ずたずたになってしまいます。

ですが、福島県においては雇用は減少しているという話です。一向に復興がすすまず、やることが山積みの一方で、です。

これは、個人的には極めて奇妙な話に思えます。

なぜなら、問題があるということは、それを解決するだけの仕事を作り出す余地が沢山あるという事だからです。

つまり、仕事を生み出すことができる可能性の山がそこにあるにもかかわらず、なぜだか、雇用は減少しているらしいのです。

復興予算が大量につぎ込まれているはずなのに、それは、いったいどこに、どういったお金の流れとして流通しているのだろうと、思わず勘ぐらずにはいられません。

そして、このことについて、地元の人も、ニュースを見ているその他大勢も、あまり関心が無いのだろうなという気がしました。結構、重大な問題だと思うのですが。どこかの政党は、自分のところの党本部の修繕代金だか何だかに流用しようとしていたとか、信じがたいニュースもありましたので、多分そういう事なんだろうという偏見の目で物事を見てます。

 

4)先が見えない

最後に思うことですが、2年もたつのに、全くゴールが明確化されていないんだなという事を感じました。

復興とはいいつつも、その内容がまったく具体的ではないということです。

つまり、「震災以前の形にもどすこと」を言っているのか、「新しい共同体を再構築する」のかというビジョンが、復興に関連する人間に共有されていないと感じました。

これって、とんでもなく問題だと思います。

なぜなら、この2年間やってきたことは、何のために、どういう目的でやってきたことなのかという評価をすることすらできないからです。

そして、多分、その評価も十分に行われてきていないのです。

さらにいうならば、全体の復興計画についても、十分な具体性をもったものが存在していないということです。

決められない政治の影響も、非常に大きいとみてます。

この件については、前政権および、民主党の無能によるところが大きいと、個人的にはおもっています。

真相は闇の中ですが。

比較的まともな執政能力をもった政治家が沢山いるのが与党で、そこの党員が組閣してる政府が今後の復興を取り仕切ることになろうと思うので、期待をしております。

おわりに

以上が、2年目の節目にひろえもんが思う、主要な問題です。

問題は山積みなことはまちがいないのですが、少なくとも、上記の4つを優先して解決できないと、復興は難しいのではないかとおもいます。

3.11震災後2年目の節目に被災地復興が進まないという問題点について想い、考えるコト (2) に続く

プロが普通の人であり続けることの重要さ

こんな記事を見つけました。

普通の人であることの大切さ――プロが陥りがちな直観のワナ

作業療法士にとっても、非常に大切なことが書いてあると思いました。

専門家というのは、一般の人が持っていない知識を持っていて、顧客である一般の人に対して、多数の視点の中からさまざまな検討を行った結果を提案することができる存在であるといえると思います。

普通の人から、その分野について意見を求められたり、助けを乞われる立場にある人ともいえると思います。

頼られる存在であると思います。

問題解決のために、最適化された答えを提案できる人、という風にもいえると思います。

けれど、それが本当に最適なのかを検討するうえで、やっぱり普通の考え方を排除してはいけないし、なんというか、プロ的な手法に偏っていてはいけないのだなぁと思いました。

うまく言えないけれど、やっぱり相手に共感してもらって、初めて協力が得られるというのもあると思いますし、そのためには、自分がもし専門的な知識を持ち合わせていなかったらどのように考え、行動するかという視点を常に持って、そういった状態を想定できることは非常に重要であると感じました。

きっと、このことは、どのような分野の専門家にもいえることだと思いますし、だからきっと、作業療法士にも言えることなのではないかと思います。

たとえ、自分にとっては自明なことであったり、既知のことであったとしても、相手がそれをわかっているかどうか、あるいは重要なことだと感じることができているかどうかは別のこととしてきちんと考えなければいけないのだということだと思います。相手に自分の提案の有効性や、重要性をしっかりと理解してもらうためには、相手の立場にたって考えるという視点が重要になると思います。

だから、きちんと「自分が無知の状態だったら」と仮定できることは非常に重要なことだと感じました。

視野を広く持つために、これから意識していきたいです。

支援者と被支援者という関係を逆転させること

 10月下旬、秋晴れの空の下、約400世帯が暮らす宮城県東松島市の大曲仮設住宅の敷地にある公園で開かれたバーベキュー大会。どこにでもありそうな光景だが、この仮設住宅にとっては記念碑的な出来事だった。

ボランティアがお客さんになった一日(震災取材ブログ)@宮城・東松島

被災された方は、いまだに復興が進まない環境の中で、さまざまな人の助けを借りて生きています。

そして、普段は、支援される側の役割を演じることが多いのではないかと考えていました。そのことについて、書かれた記事があったので紹介します。

 この日のもてなし役は仮設住宅で暮らす被災者。「お客さん」はこの仮設に出入りするボランティアや支援組織のスタッフら。いつもとあべこべの役割は、支援してくれた人たちに感謝を伝えるため。そして、今後は自分たちの力で立っていくという住民の決意の表れでもある。

つまり、普段と立場を逆にして、サービスを提供する側と提供される側の関係をあべこべにしたわけです。何かをされてばかりだと、どうしても人間関係がそういった支援者、被支援者という立場で固定されてしまいがちです。そうした意味で、このような試みには非常に意義があるのではないかと感じました。

また、

 一人ひとりの顔を見ながら感謝を伝えた自治会長の小野竹一さん(64)は「ボランティアさんにはこれからもお世話になるが、自分たちも何かできるということを確認したかった」と話す。

といった発言からも、人が何かを誰かのために行うという、その行為そのものが人間の自尊心と深く結びついたものであると考えられます。

このことは、作業療法士という人に作業を提供するときの視点として大切にしていきたいなと思います。

「自死」と言葉の言い換えの空しさと、その向こう側の本質

少し前に、「自殺」は聞くに堪えないから、「自死」という言葉に変更しようという活動をしている人たちがいるということがニュースになってました。

いわゆる言葉狩りとの批判もありますがどうでしょうか。

「言い換え」で取り繕っても長期的には無意味

個人的には、あまり意味がないと思っています。

実際に、先の話題に対する、「言い換え」への意見が見られました。2chですけども。

「自殺」→「自死」とかやってないで

「ほんわかぱっぱ」にすりゃ暗いイメージも何も無いし、それでいいんじゃねーの?

と言う意見です。

2chの書き込みなので、実際かなりおふざけの要素が強いですので不快感を感じる方も少なくないかもしれません。

しかし、言い換え問題の本質をついた意見と言えるでしょう。

自死としたとて、内容が「自分で命を絶つ」と言う行為を指す以上、その本質とその暗い部分からはどんな言葉に言い換えたとしても、決して逃れることができないと言うことが、皮肉にも端的に表現されてしまっているのではないかと思います。

本当に必要なのは、遺族の心のケア

この提言を遺族をはじめとした、自殺した人から取り残された人たちが見たときにどのように感じるかといえば、「馬鹿にして」といった感想だと思います。

しかし、ある意味においては、本質的には「自殺」→「自死」も、「ほんわかぱっぱ」と同じであると言うことは肝に命じておく必要があります。

つまり、どのような言葉を使ったとしても、その言葉が意味する本来の事象はなにも変わらず、単なる言い換えは事実から一瞬目を背けることができるだけなのです。

さらに言うならば、

「大切な人が自ら命を絶った。」

という事実は、言葉によって印象操作できる範疇を超えているのではないかと思うのです。

もしも、言葉の言い換えでイメージを変えることを本当の目的としているのであれば、本当に「ほんわかぱっぱ」でいいと思います。
しかし、そうではないのですよね。

言い換えの活動をしている人が本当に欲しいと思っているものは、単なる言葉の言い換えではなく、傷ついた心が少しでも癒されたと思えることです。

なんとか、苦しみから逃れようともがき苦しむ結果として、そのような活動に至っているのではないでしょうか。

「行間を読む」ではないですが、そういう活動をしている人たちは、どういった心境でそういうことをしているのか、「不思議だな」と、まずそれを知ろうと思う人が増えるといいなと思った次第です。

「言い換え問題」と作業療法との関連

作業療法にかかわる人間としては、受け入れて、次の一歩へ進めるような、そんな支援ができるようになったらいいのかなと思います。

表面的な部分にとどまらず、しっかりと本質的な部分に寄り添うことを忘れてはいけないと思います。