「ゾンビ細胞」発明!!ってオイオイ………\(^o^)/ という話。

はじめに

「ゾンビ細胞」って言葉、ここ2、3日で目にした方もおられるのではな以下と思います。

こちらの記事を読みまして。

『死んだあとも働き続ける「ゾンビ細胞」の開発に成功!!』というニュースが回っているな。あれは嘘だ。

の記事になります。

ゾンビ細胞は、「死んでるのに生きている細胞」ではない。

ですよねー。

「ゾンビ細胞」という単語が、一部で話題になってるなぁというのには気が付いていたのですけれども、紹介されている記事を読んでも納得がいかなかったので、このブログでは触れてませんでした。

上記で、ご紹介した記事を読んでようやく事の顛末が理解が出来ました。

そもそもゾンビ細胞っていうレッテルを張ってたものの正体がなんなのかということをよくよく検証しないまま、一部では、バイオハザードか!なんて、面白がったりしていたみたいです。

多分、ネットの場合は、分かってやってる人が多いと思うので、特に問題にするべきことでもないんでしょうけどね。

で、けっきょく「ゾンビ細胞」の正体は?

珪酸(ガラスのようなもの、SiOxとかとか)を細胞に取り込ませて、死んだ後も形状が変化しないようにした細胞のことらしいです。

死んだ後も、生前と同じ形状を保っていられるようにすることで、より生きた状態に近いままで細胞を観察することができるなどのメリットがあるそうです。

べつに、生き返るわけでもなんでもなく、「ころしても、形が崩れない」をゾンビ、と表現したというのが、「ゾンビ細胞」という言葉が生まれたわけのようです。

おわりに

この研究の着眼点が、実は「珪藻」というものだったということをしって、非常に面白いなとおもいました。

誰もが理科で、小学校とか中学校の段階で、微生物のうちの一つとして勉強したことがあるはずです。

そう、ある意味で身近なものです。

こういった身近な知識にあるような、既知のモノから、新しい発想や技術が生まれるというのは、やっぱり面白いなあと思います。

自分は平均より優れていると思う心理学的錯覚「優越の錯覚」のメカニズムが明らかに!!

はじめに

誤解を招く言い方をすると

「『勘違い野郎』ほど、鬱になりにくい」

そうです。

つまりひろえもんは、多分鬱にはならないんでしょう(?)

作業療法の場面における、鬱病に対してのアプローチもこれが影響して変わるかもしれません。

本研究の意義について

今回の研究は、タイトルにもあるように「優越の錯覚」というものについて明らかにしたものです。

「優越の錯覚」は、いわゆる「根拠のない自信」の一つといってよいとおもいます。

この優越の錯覚ですが、心理的に健康な状態のヒトであれば、誰もが持っているものなんだそうです。

つまり、ヒトは通常、『自分は平均よりも上に違いない』という、根拠のない確信を持って生活をしていて、むしろ、その方が、心理的には健康であるということなのです。

これが、実際の脳の働き、活動とどのように関連するのか気になりませんか?

心理学や、社会人類学などにおいては、そういった現象が認められるということが多くの研究から浮かび上がっていたにもかかわらず、実は、いままで、どうして人が「優越の錯覚」をするのかという事が良くわかっていませんでした。

つまりこの研究は、世界で初めて、生理学的に「優越の錯覚」というものが存在するのだということを証明したという事になります。

「優越の錯覚」が良くわからないけどある、モノから、「実際に生理学的に観察できる脳内の現象」として新たに位置づけられたといってもよいと思います。

本研究は、山田 真希子(放射線医学総合研究所 分子イメージング研究センター 分子神経イメージング研究プログラム 脳病態チーム 主任研究員)先生によって行われました。

内容のおいしいところ

この研究のキモは、なんといっても、次の内容だと思います。

すなわち

『優越の錯覚は、線条体と前頭葉の機能的結合が弱いほど起こりやすいことが分かった』

という事です。

また、

『前頭葉と線条体の機能的結合の強弱は、線条体におけるドーパミン受容体の密度に比例する』

というところも重要です。

本研究の手法

まず優越の錯覚を認知心理検査で測定

PETとfMRIを使用して、線条体のドーパミン受容体密度と安静時の脳活動を測定

ブートストラップ手法を用いた解析方法で関係性の解析

これまた、機械の進歩によるところも大きそうですね。

鬱病との関連

作業療法の人間としては、今回の研究と鬱病との関連性が非常に気になるところです。

それについても言及されており、今回の研究で、同時に判明したこととして、

抑うつの指標である絶望感が高いほど優越の錯覚が低いことが判明し、優越の錯覚が低い背景には、線条体のドーパミン受容体密度の低下による線条体と前頭葉の機能的結合の強化が関わっていることが見いだされました。うつ状態は、多様な要因により生じ、また、その症状も多様であるため、新型うつ病に代表されるようにその診断や治療は一筋縄ではいかないのが現状です。特定の症状を説明する認知現象の脳内メカニズムの解明は、新たな治療薬や診断技術を開発する上で求められており、今回の研究成果が、抑うつの特定の症状のバイオマーカーの創出につながり、精神医療において症状を標的にした新たな診断や治療戦略を打ち出すことが今後期待されます。

とのこと。

今回の研究が、鬱病の病態の本質に一歩近づくものであったことは間違いありませんが、このコメントを読むと、やはりまだまだ、根本的な解決に結びつけるには時間がかかりそうだなあという印象を受けました。

しかしながら、ひろえもん個人的は、非常に大きな前進だと確信しています。

おわりに

パーキンソン病など、脳の変性疾患における鬱病との関連も今後こういった研究の対象になっていくとしたら、現在「こういう傾向だよね」程度の理解の者が、「こういう機序で、こうなるから、こうしたほうが良い」という具体的な対応ができるまでに研究が深まることを期待せずにはいられないですね。

今回の研究の一部は、文部科学省 脳科学研究戦略推進プログラム「精神・神経疾患の克服を目指す脳科学研究」の一環だそうです。

コンクリートに公共投資するのもいいですが、こっちに莫大な資金を投入しても結構景気対策になって面白そうだと思います。

参考:共同発表:「自分は平均より優れている」と思う心の錯覚はなぜ生じるのか–脳内の生物学的仕組みを世界で初めて発見–

また、ボチボチと更新していこうと思います。

国家試験直前は、つめこみで忙しかったので、全く更新ができず、すみませんでした。

本当に、想像以上に余裕がなかったですね。

同時に自分の勉強不足もひしひしと感じましたので、自分で、自分なりにしっかりと勉強していこうとおもいました。

そんなこんなで、また、毎日更新できたらなぁとおもいます。

内容は、作業療法よりの情報がもっともっと増やしていけたらなぁと思っています。

あとは、せっかく時間があるので、スマートフォンやタブレット端末対応させたいなとも。

現時点だと、スマホでトップページを開くと大変なことになってるみたいなんですよねぇ。

今のトップページのデザインを流用して、サイトを構築するのは、帰って面倒かもしれないので、この際、サイトデザインをゼロから作っちゃおうかと妄想してますが、そのたもろもろとの制約や絡みがありまして、実際実現可能かどうかはよくわかりません。

まあそんなこんなですが、今後とも、いろいろ模索しながらやっていければとおもっております。

今後とも、作業療法.netをよろしくおねがいします。

『「高齢者はIT苦手」はウソ ネットが老後を充実 東京大学大学院情報学環教授 橋元良明氏 』 という記事の紹介のようなナニカ

はじめに

老人は、デジタルデバイスと相性が悪かったというのは今は昔。

高齢者もどんどん、インターネットをはじめとしたIT技術を利用するようになってきています。

という記事の紹介

記事要約

  • 記事は東京大学大学院情報学環教授の橋元良明氏へのインタビュー形式
  • 橋元氏は、シニア層のインターネット利用に関する調査研究をしている。
  • パソコンに全く触れたことが無い高齢者13人にパソコンを貸与し、パソコンの使い方、ネットの利用の仕方を教え、1年間継続的調査するフィールド実験を実施。
  • 対象者の年齢は、60歳以上
  • 全員が交流サイト「フェイスブック」を使うように
  • ネットショッピングを利用することで「非常に生活が豊かになったように感じる」「自分が幸せになったような感じがする」という意見も。
  • ネットを始めた高齢者は、交流の範囲が広くなって生き生きしている
  • 橋元氏によると、高齢の方にITを教えるときは、順番通りワード、エクセルを教えるよりは、まず、好きな動画を見ましょうとか、こんな面白いサイトがありますよ、というところから始めるべき。
  • インターネットを利用するシニア層の6割以上がネットショッピング。
  • 3割の人がネットオークション。
  • 5割近くがネットでチケット予約。
  • ネットをやっているような人はいろいろなものをきちんと理解するリテラシー(読み書き能力、教養や常識)が高い。

記事の内容に触れて

「確かにそうだ」

と思ったのは、

「こんな素敵なことができますよ」

ということが直感的に実感できるサービスを、まずはじめに利用してもらうことの重要性でした。

実際、インターネットを利用したショッピングは、高齢者の生活スタイルや、現実に非常に即した物であり、相性が良いと感じました。

個人的には、退院後の生活を見据えた作業療法のリハビリテーションや、その選択肢の一環として、こうしたITの利用の提案なども考えていけたら面白いのだろうなと思います。

余談

素晴らしい記事でしたが、最後に、既存マスメディアに対する配慮がわざわざ書かれており、これは、余計だったかなぁと思います。

――いまはネット上の信頼できる情報のもとになっているのはマスメディアが集めた情報であることが多いですが、ネットばかりが重んじられると、マスメディアがこれからも信頼できるネット情報の供給源であり続けられるかが心配になります。

橋元 そうですね。新聞社、テレビ局の経営が傾くと、情報収集体制の維持ができなくなります。つまり、外国の駐在員の数を減らさざるを得なくなったり、国内の取材人員を減らさざるを得なくなったりして、ニュースが貧弱になってきます。ネットとマスメディアはバランスよく発展していく必要があると思います。

多分、消費者にとっては、今のテレビや新聞社がなくなったとしても、ネットメディアが新しい形で台頭するか、もしくは、資金余剰のあるグーグルやアップルなどの多国籍企業がメディア事業に展開する形となるので、特に問題ないでしょう。(その移行期に、不具合はあるかもしれませんが。)

本文とあまり関連性のない些末な問題を、一番最後に持ってきてたのは、「余計なこと言わなきゃいいのに」と、もったいないなあとおもいました。

おわりに

IT機器はこれからも、きっと、予想もつかない進歩を重ねるのでしょうが、いろいろな人が使えるモノであり続けてくれたらいいなと思います。

元記事:「高齢者はIT苦手」はウソ ネットが老後を充実 東京大学大学院情報学環教授 橋元良明氏 -日本経済新聞

砂糖の特性を使って傷口の雑菌の繁殖を防ぐ民間療法がイギリスで効果を上げているらしい

はじめに

砂糖と言えば、あんまり健康的なイメージではない上、砂糖を使った治療法というとどうも西洋医学のスタンダードから外れてしまいそうな、バイアスが個人的にあるなあって思ったりする次第ですが、どうやら、そのような認識は改める必要があるかも。

「傷口に砂糖」で治癒を早める

理屈としては次のような通りです。

砂糖は、浸透圧の関係から、水を周囲から奪う性質がある。つまり、傷口に砂糖を塗ることは、傷口の乾燥を促し、傷の治癒を遅らせる原因となる最近の増殖を防ぐ効果がある。

という理屈だそうです。

傷の治癒が場合によっては、抗生物質を使用する場合よりも早いのだとか。ほんまかいな。

記事の内容を信じるならば、適応は褥瘡(とこずれ)、潰瘍はもちろん、切断術後などの比較的大きな傷口に関しても効果を上げているとのこと。

ほんまかいな。

精神的ダメージに効果?

砂糖は、抗生物質などの医薬品と比べると、身近な物質であり、日常的であり、非日常的な感覚を和らげるのに役立っているそうです。

引用すると、

砂糖というごく身近な物質で傷がたちまちよくなる様子を目にすると気持ちが前向きになり、頑張ってリハビリをしようという意欲が湧いてくる。肉体面だけでなく心理的な効果も大きいのだ。

とのこと。

なかなか面白いですね。

もともとは、アフリカの民間療法

イギリスはウェストミッドランド州ウルヴァーハンプトン大学で成人看護学の上級講師をしているMoses Murandu氏が、この治療法を普及させたらしいです。

いわく、自身の出身地であるジンバブエでは、この民間療法が当たり前のように行われているそうです。

治療効果について

これまでに35人が砂糖療法を受け、副作用や悪影響は1例も出ていない。他の医師や看護師も効果を実感し始めており、ウェストミッドランド州では、Murandu氏を中心に、3つ病院で比較試験が行われている。

これはすごいですね。

当分先でしょうが、もしこれが国際的スタンダードになるとすれば、日本でも傷口に砂糖を塗りこむのが当たり前になるかもしれません。

おわりに

とはいっても、「製薬会社との関係性やお国の基準なんかがあるので、日本では導入されない」に、一千万ジンバブエドル。

こういった、日本で言うところの「おばあちゃんの知恵」のような方法、見直してみると、有用なものがかなりあるの、かも

眠たくなると、脳のパフォーマンスが落ちる仕組みが明らかに!

はじめに

「眠くなると、モノが考えられなくなる」

ひろえもんにとっては、なんとなく、当たり前すぎて、仕組みについて疑問を持ったことがありませんでした。

でも、そういう人は、研究者にも多かったのかもしれません。

なんと、これまでその仕組みは明らかとなっていませんでした。

今回、そんな「あたりまえ」を明らかにした、興味深い論文が発表されたようです。

なぜ、ねむくなると、思考力が低下するのかの研究は誰がしたか

この研究は、独立行政法人 情報通信研究機構(以下「NICT」) 未来ICT研究所の宮内哲総括主任研究員らと九州大学医学研究院臨床神経生理学・神経内科学教室の医学系学府博士課程 上原平(現九州大学病院神経内科助教)らによっておこなわれました。

明らかになったことの簡単な要約

まず、目が覚めている時には、情報が素早く受け渡しができるような状態となっていると考えられています。具体的には、何もしていない安静時でも脳の領域間で、情報のやり取りが行われています。

一方、まどろみ状態、つまり、うとうととした状態では、この連携がうまくいかなくなるそうです。

この情報の受け渡しがうまくいかない状態が、眠いとパフォーマンスが低下する原因となっているとかんがえられます。

以上要約おわり。

おもしろい実験手法

この実験は手法がまた興味深いのですが、fMRIを使うだけでは、「眠気」を客観的に測定することができません。

そこで、脳波を測定しようという発想になると思うのです。

が、普通はMRIと脳波って相性が悪いのです。

そこで、「無いなら作っちゃえ」MRIの中でも動く脳波測定の機械と、MRIと脳波を同時計測できるシステムを独自に作成したとのことです。

すごいですね。

ブレイクスルーだなあとおもいました。

おわりに

ひろえもんにとっては、だれもが「あたりまえ」と思ってしまっていることにスポットライトを当てていくことが、とても大切だなぁとおもう良い機会でした。

そして、「実験方法が無いなら、作ってしまえ」という発想もなかなか、マッチョであると同時に、非常にユニークで素敵だなあと思いました。

「自分が知りたいことを、どのようにしたら知ることができるか」

という学びは、普段からしておくことが大切だなぁとも感じました。

参考:なぜ眠たくなると脳の機能が低下するの?その仕組みを解明!~脳の領域間の情報伝達が変化~ - 独立行政法人 情報通信研究機構

「高機能発達不均等:High-Functioning Developemental Imbalance:HFDI」という概念

概要

「高機能発達不均等:High-Functioning Developemental Imbalance:HFDI」

という耳慣れない概念について、提唱されている斉藤清二先生がご自分でその一部をご紹介くださったみたいなので、要約・引用紹介します。

以下引用(一部要約)

私達は富山大学でのプロジェクトにおいて複数例の支援経験を積み重ねるなかから、少なくとも大学キャンパスにおいて、社会的コミュニケーションの困難さを抱えた学生達を支援しようとする時、彼らの大部分を「発達障害」とラベルすることは、有効ではない、と考えるようになった。

発達障害」とは「発達させるべき能力の生得的な障害(極端に言えばある能力の欠損)」と理解されやすい。しかしこのような理解は、少なくとも大学キャンパスというローカルなコンテクストにおいて、コミュニケーションへの支援を行おうとする時、適切とは言えないというのが私たちの実感である。

むしろ、彼らは発達させるべきいくつかの能力(少なくとも潜在能力)が高すぎるために、平行して発達させるべき他の能力との間に不均等(imbalance)を生じてしまい、それが色々な困難さを彼らにもたらしていると考えた方がよいのではないかというのが私達の仮説である。

そこで私達は、社会的なコミュニケーションに困難を抱え、発達障害と一般に呼ばれているような傾向をもっているが、ある分野においては卓越した能力をもっているような学生を、とりあえず「高機能発達不均等(HFDI)」と呼ぶことを提唱した。

HFDIの暫定的な定義は以下のようにまとめられる。

  1. 知的発達の遅れを伴わない。
  2. 興味や関心が特定のものに限られる。
  3. 特定の卓越した能力を持っている。
  4. 他者との社会的関係の形成が困難。
  5. 独特の認知・思考のパターンを持っている。
  6. 被害感、怒りを持ち続けがち。
  7. 発達障害の診断基準を満たす場合もあれば満たさない場合もある。

もちろん、上記の暫定的な定義はかなりあいまいなものであり、今後支援の継続を重ねる中で、より適切なものへと改良していく必要がある。

さらにこれは、医学的な診断基準に異議をとなえるというようなことをもくろんでいるのではなく、あくまでも大学生支援という場に限定し、とりあえずの支援方針を策定し、実践の中でより適切な状況理解を、学生と支援者の相互交流の中から作り出していくための、出発点となる暫定的な概念である。

しかし、従来「障害」とラベルされていたカテゴリーを「不均等」と呼び替えることによってもたらされるメリットもあると思われるので、期待されるメリットについていくつか整理しておきたい。

「発達障害」を「発達不均等」と呼びかえることにより期待されるメリットについてまとめていきます。なおこれは、必ずしもオリジナルの発想ではなく、すでに多くの人によって、色々な形で提唱さsれていることでもあります。その一番目は「『一生変わらない』から『バランスの回復へ』」です。

発達障害とは、概念的には「脳の何らかの異常によって、生まれつき、あるいは発達の早期に機能不全が現れて、一生持続するものである。薬で治療する病気とは異なり、できるだけ早期から周囲が理解して、環境を整え、養育的な対応をすることが重要である」と一般に理解されている。

本人の努力や心がけ、あるいは本人への治療ではなく、環境の整備やアクセスの保証の必要性を強調することは、もちろん意味がないことではない。しかし、「障害が一生持続する」ということが強調されすぎると、「障害特性は変化しない」というニュアンスもまた強調されることになる。

しかし我々の経験からも、また多くの事例研究報告からも明かなように、彼らは、他者との交流を通じて自らの経験を意味づける作業を通じて、明らかに変化していく。大学生に限らず、支援にあたっているものの多くは、彼らがまさに「成長し発達する」という実感をもっている。

「発達不均等」とは、「発達途上にある能力の間に不均衡がある」ということであり、たまたま相対的に発達の遅れている部分(多くの場合は社会性である)があるにしても、それは成長可能であるし、同時に優れている部分に対してより多くの注目を与えることが可能になる。

支援の目的は、欠損している能力を支援者が補うということよりもむしろ、学生のもつ優れた部分が発揮されるような場を提供し、学生の自我成長を促しつつ、発達のバランスを回復させていくことにおかれることになる。

「発達障害」を「発達不均等」と呼びかえることにより期待されるメリットの2番目は「『障害受容』から『特性理解へ』」と表現できる。

障害モデルとは、障害を早期に診断し環境を整えると同時に、本人およびその家族に障害受容を迫るというプロセスを必然的に内包する。障害モデルを採用するかぎり、心理教育や自己理解の促進という作業は、「自分の障害についての『正しい知識』を獲得してそれを受け入れる」ことを目指すものになる。

しかし多くの場合、「障害についての正しい知識」とはあくまでも専門家の中にある「知識」であり、それは往々にして、学生本人や家族が理解している知識内容とは一致しない。大学生の場合、すでにかなり長い人生をそれなりに乗り越えてきたという歴史を彼らは持っている。

そのような歴史に基づく自己理解のストーリーを形成している彼らにとって、「障害受容」を迫られるというような体験は、例えそれが「専門家の視点からは正しい知識」であったとしても、「侵害的」に感じられることがあるのはやむを得ないと思われる。

時にはそれまでの否定的な経験によってただでも低下している自尊感情を、さらに低めるような結果になりかねない。

これまでも再三言及されていることであるが、学生や家族の自己理解にとって重要なことは「発達障害」という診断を受け入れることというよりはむしろ「自分の特性」を理解することであり、それは具体的には「自分の得意なところと苦手なところ」を理解することである。

そうだとすれば、自己理解の内容としての「障害という概念」は、そもそもそれほど重要ではないということにはならないだろうか。

本人や家族が、「障害」というモデルを受け入れるほうにメリットがあるならばそうすればよいし、そうではなくて「障害」という言葉で表現されるものとは異なるモデルを採用することにメリットがあるならば、そうするように援助すれば良いのではないだろうか。

「発達不均等」という概念は、彼らが採用しうるモデルの選択肢を増やし、障害モデル以外の説明図式を通じての自己理解を増進することに益する可能性がある。 

「発達障害」を「発達不均等」と呼びかえることにより期待されるメリットの3番目です。それは「『異質な人たち』から『連続したスペクトラム』へ」と表現できます。

発達障害のモデルは、生得時にすでにもっていた障害が、年齢を経るにつれて次々と新たな障害を生み出していくというモデルであり、それが人生早期に「見逃される」ならば、二次的な障害という形で、次々と悪いことを産み出していくというモデルでもある。

このモデルは、発達障害とは一般的な集団とは明らかに区別できる特性を持った人であるという考え方が前提となっている。しかし現実には、中核的な発達障害の大学生がもっている特性のかなりの部分は、いわゆる一般の人も程度の差こそあれ持っている。

実際に相談室や支援の窓口を訪れる学生は、最初から彼らの特性を全て示すわけでもなければ、自分の特性を自覚しているわけでもない。彼らの特性は、支援などによる関わりを通じて次第に明らかになっていくものである。

今までの障害モデルでは、最終的に医学的診断がなされない限り、彼らはそもそも発達障害とはカテゴライズされず、彼らに対する支援の実際が公表されることはほとんどなかった。しかし大学のみならず、現代社会において、いわゆる「社会的コミュニケーションの困難」は大きな問題である。

このような問題に対する支援の方法論が確立されれば、それは中核的な発達障害の学生のみならず、キャンパスの構成員全てにとって恩恵をもたらす可能性がある。

「高機能発達不均等」という概念は、ある意味では大学で学ぶ大部分のもの(あるいは教える立場あるもの)にとって程度の差はあっても当てはまるものであるから、この問題に対する関心の領域を拡げるために有用である可能性がある。

発達不均等とは、その人が発達させている能力のうち、あるものは非常に高いが、あるものは比較的低い状態にとどまっているので、全体として能力の凸凹があり、そのために(特に社会的なパフォーマンスにおいて)苦労しているという考え方である。

そういう風に考えると、発達不均等はある意味では程度の差によって、誰にでもあるものだから、発達障害とみなされる人とそうみなされない人というのは、実は連続したスペクトラム上にあり、決してあるところで明確に線引きできるものではないということになる。

私達は、HFDIの学生が生活しやすいように大学を変える試みは、以下の2つの理由によって、全ての大学構成員にとっても良い効果をもたらすと考えている。

(1)そのような大学は、必然的に多様性を尊重する大学とならざるを得ない。 HFDIの学生は、他の人から見ればユニークな認知のしかたをしている。またHFDIの学生同士においても、認知のパターンはおそらくそれぞれ異なっている。一般にこのことは、「変わっている」とか「常識がない」というような評価をされがちであるが、それは偏ったみかたである。一人一人の人間が、それぞれ違った世界を認識しており、多様なものの見方が存在することを認めあうことによって、各自がそれぞれのユニークさを、より生かすことが可能になる。このような大学環境は、特定の学生だけではなく、全ての大学構成員にとって、より生きやすい創造的な場となると思われる。

(2)そのような大学は「暗黙のルール」に過剰に頼ることなく、明示すべきことをきちんと明示したうえで、質の高い交流が可能になる「場」を提供する。多くのHFDIの学生がもっとも苦手とすることは「暗黙のルールを読み取ること」である。テクストとして明示されることのない「暗黙のルール」がその場を支配しており、少しでも外れると、徹底的に非難されたり、その場から排除されてしまったりする世界は、HFDIにとっては恐怖の世界である。しかし、このような世界は、その他の人にとっても生きにくい世界ではないだろうか。日本の文化は、「言葉に表現されていないことを察して行動すること」を良しとする文化であり、このことにはもちろんメリットもある。しかしテクストやルールによって明示化できることはきちんと明示化した上で、その中でよりよい交流を目指していくような文化は、HFDIの人のみならず、多くの人によっても生きやすい文化なのではないだろうか。そのような質の高い交流を大学内に生み出すことが可能になる「場」を提供することは、大学の大きな責務であると考える。

詳細について

『発達障害大学生支援への挑戦』(金剛出版、2010)で紹介されているとのことです。

感想

同じ状態を示す言葉でも、用語を変えることによって、印象が変わるということは確かにあることだと思います。

メリットデメリットはあると思うので、難しい問題だと思いますが、考えたことのない視点だったので、新鮮に感じました。

今回紹介されているような定義の在り方の方が、有効な集団がいるということを知ることができたことはよかったかなぁと思います。

情報元

@SaitoSeiji(twitter)のツイートより

楽器へ早期からなじんでおくことが、いわゆる「賢さ」につながる可能性

はじめに

「おけいこ」として、小さいころから楽器を習ってきたという人は少なくないはず。

また、自分の子供に習い事をさせてみようかと考える親御さんも少なくないと思います。

そういった人々には興味のある話題ではないでしょうか?

「楽器に小さいころから触れさせること」には意味があるらしいことが、提言されました。

「音楽」を7歳までに始めると、賢くなる可能性。

ここで言う、賢い脳とは、

情報伝達能力が高い、つまり、情報処理が有利に行える脳

という意味です。

そういった意味で、7歳までに楽器を始めると、脳の脳梁と呼ばれる部分が大きくなり、賢い脳になりやすい可能性があるということです。

脳梁は、左脳と右脳の情報の受け渡しをつかさどる部分で、脳梁が大きいということは、それだけ、右脳と左脳を行き来する情報の量が多くなる可能性があります。

実際、7歳までに楽器を始めた人は、わずかな練習時間で、初めての運動を正確に習得できたそうです。この脳梁の太さが、運動学習の効率に大きく影響していると考えられます。

また、この実験の対称群として、7歳以降に楽器を習い始めた人たちに同じ実験をしていますが、楽器を演奏したことがない群と比較したところ、特に変わりがなかったそうです。

このことから、7歳よりも前に楽器に習熟することが、賢い脳を作るという目的にとっては重要である可能性が示されました。

この調査は、Virginia Penhune教授の指揮のもとでカナダ大学などが中心となって行われました。

おわりに

なんだかんだ言って、結構、馬鹿にならない「おけいこ」。(金銭面でも笑)

そうした「情操教育」の一つとして、「ピアノ」や「バイオリン」を小さいころからやってきたという人は意外と少なくないとおもいます。

また、だれしも、そういった人に人生の中で一人は絶対にあったことがあると思います。

そして、そういう「習い事」を3歳といった小さいころからやっていた人たちについて、ひろえもんは、なんとなく「かしこいなー」と思うことがおおかったのです。
賢いなと思う人の割合が、世間一般のそれより多い気がしていました。

具体的には、世間一般では100人に1人レベルの賢さの人が、100人中20人はいるような感じでした。

もしこの感覚が正しければ、ざっと、20倍くらいですよね。

自分が行ってた学校の吹奏楽部の人たちとかは、本当に小さいころから何らかの楽器をやってたと言ってた人が多かったことを考えると、納得がいった気分です。

参考:Early music lessons boost brain development(初期の音楽レッスンは、脳の発達を後押し)

のっぽさんのメッセージ「大人になったみんなへ」

はじめに

ノッポさんかっこいい。

なんとあの、のっぽさんがしゃべります。

みなさんご存知、NHKの伝説の番組「できるかな」のキャラクターのっぽさんが、大人になった視聴者に対して送ったメッセージ。

動画

おわりに

ノッポさん素敵。

モノづくりって、どうしてああ、人をワクワクさせるんでしょうね。

不思議。

 

 

関連:わくわくさん、つくってあそぼ、やめるって。

こっかいかくあれかし

暴走老人は教養人であった。長生きするなら、こんな老人になりたいです。

あなや、いとをかし。

国会での議論の最低水準はこれくらいのレベルであってほしいとおもいます。

やはり。

政治家というものを貶めたのは、マスコミもさることながら、やはり、無能な政治家であるということを実感しますなあぁ。

あとは国民の無知ですとかとか。

政治家も経営者もリーダーも、絵が描けてこその存在だと改めて認識させられました。

それを国民が、自分にとって良いことなのか悪いことなのかを、自分で判断できるようになることも大切ですよね。

マーケットで言うところの賢い消費というのは、政治においても通用する概念ではないでしょうか。

 

余談ですが、学校教育での教育の内容について、一つ思ったことがありました。

義務教育の最終目標は、これくらいの話が楽勝で理解できる水準にあるべきだなあということです。

個人的には、夢物語ではない政治の話ができる人が、もっともっとふえてほしい。

そのためには、やはり、その人の能力がどの程度なのかを評価できるだけの教養や学術的な技能を国民有権者が一人ひとり持っている必要性がどうしても生じると思います。

民主党には、明らかに政権担当能力もそれを担う人材も存在していませんでしたが、それを見抜けなかった国民は、現在も有権者のままです。

第二、第三の民主党が現れた時に、また、その口車に乗せられる可能性は大いにあります。

それを防ぐためには、やはり、教育が大事になるのではないかな。

と、ふとかんがえました。