自分に出来るやり方で、自分なりにやったらいいを大切にするのが作業療法

作業療法のあり方としては、とりあえずやってみる

やってみせる。

うまく行ったらおっけー

うまく行かなかったら、

なぜうまく行かなかったのかと検討して

修正して

もう一回挑戦という

試行錯誤だったり

最近の流行で言えば

PDCAサイクルにあてはまるような

そういう一歩ずつ前進的なやり方で挑戦していくのが

良いんだろうなという感覚を得ております。

これって人生の基本ですよね。

何かやりたいことや、やらなければ行けないことがあったら

それに向かって

実践と修正を重ねていく訳でして。

そういう意味では、作業療法って特別な事をしている訳でないんだなあ

としみじみ思う次第です。

こんな話がたくさん出来るといいのだろうか。

臨床ベースの視点とは何か?専門性との関連から見るからみると。

今日、同じ職場の若手のコと割と深い話をすることがあり、
「そうそう、そこだよね大事なのは」
という話をしたのです。
いくつも。
そこで、話題になった、専門性についての話をシェアしたいとおもいます。
職場でとある人の評価がまっぷたつに割れているそうです。
前者は、自分も患者様にそういう関わりがしたいと言い
後者は、その人は患者さんをバカにしていると評するという。
有る意味で、真逆ともいえる評価を受けているらしいその人は
患者さんの特性をふまえて、うまく状況をコントロールし、納得を引き出しているようなのです。
当事者同士では、特に問題は起こっていませんが、後者の人々から見ると患者さんをバカにしていると映るらしいのです。
前者と後者をざっくりと分けると
前者は、当事者目線での臨床タイプ。理論より行動派
後者は、専門職目線での臨床タイプ。個別の実践よりも高度な理論を好むタイプ。
の人々がそんな評価をしているらしいです。
なるほどなーと思いました。
ひろえもんはもともと理論重視派だったのですが、改宗して実践がすべて派になりそうな感じな毎日です。
目の前の人に関係がある内容や、理論だけに取りあえず集中して、足りないところは都度学ぶという形が、臨床には適していると感じます。
結局誰のための臨床やそのスキルなのかという話でもあります。
また、その人がいかに優れた知識を持っていても、それを生かせる人間性がないと、空回りしてしまうだけだなーと思います。
専門性にとらわれすぎると、目の前の患者様が見えないです。
一体、誰のための、何のための専門性なのか、しっかり確認して必要な知識を取捨選択出来ないとダメだなーと感じます。

今までの流れでやってることは、ほんとうにただの「流れ」かもしれない

みなさんこんばんは。

作業療法士のひろえもんでございます。

精神科の患者様って長期滞在される方が多いではないですか。

で、自分ってまだ新人の域をでないわけじゃないですか。

ベテランの先輩から、病棟ごと患者様を引き継ぐことがあるんです。

で、今までの流れとかをざっくりと教えてもらうわけです。

その流れは、結構きっちりこなせるわけです。

でも、本当にそれでいいのかなあと思ったりするんですね。

そして、あんまりよくない時が多いんですが。

たとえば、今車椅子の方。

いま流れの中で行っているプログラムって内容的に、車いす座位のまま行う活動なんですが。

そのままでも、別に何か現在のところ問題があるわけでもないんですが。

しかし、本当は歩けたほうがいいんですよ。

そのほうが、退院するために必要ないろいろな能力が獲得されることにつながるわけでして。

先輩から引き継いだプログラムは、その先輩が行っていた時に最適だったプログラムで今最適なものかというと決してそうではないなという事実にはたと気が付いたわけです。

こういう評価って、きちんと都度やって、プログラムの内容も更新していかないといけないなあと思いました。

そうじゃないと、ただこなすだけのプログラムになってしまう。

そんなの作業療法じゃないなあと思うので、しっかりと評価と介入の流れに自覚的でありたいとおもいます。

動作分析、活動分析というOTの基本にして奥義

OTって何をやってるのと聞かれたときに、これを説明したらいい気がする。

と、最近思うようになりました。

どんな介入を考えるにしろ、動作分析や活動分析はやることですよね。

そこを切り口にして、周辺を語っていくとひろえもんてきには「ふむふむ」と思えます。

また、OTの実力の差って実はそこにあるのではないでしょうか。

熟練した作業療法士ほど、動作分析や活動分析が流れるように自然に行え、その先へスムーズに移行できているとかんじています。

OTはやることが多くて、作業療法士自身も混乱してしまう事が多いです。

そしてこれが、先日実習にやってきた学生さんが「作業療法が何なのか分からなくなってしまいました」という発言をすることになった原因の一つと感じています。

「何でも作業」にできてしまうからこそ、作業療法士がしていることを単純化するときのワンポイントとして動作分析や活動分析に焦点を当てるのは割とナイスアイディアではないかと自画自賛している所なんですが、皆さんどう思われますか?

これを軸にして語れるようになると、他職種との連携がしやすくなるのはもちろん、作業療法士自身が自分がやるべきことをぶれずに行えるのではないでしょうか。

言いたいことがいえることはとても大切だと感じた今日この頃

リハビリテーション職というのは、思いのほか社会からその実態が隔絶された職業であると思う。

いいかえると

「実際何やってるのか、よくわかんない」

という職業だと思う。

作業療法士はリハビリテーション職なので、あんまりよくわからないというのが普通なのだと思ったほうがよい。

自分の家族がよく知らない時点で間違いないと思います。

それはなんでかっていうと、実体験や経験が実践に大きな要素を占める職だからだとおもうのです。

それから、患者様とか対象となる人が経験する部分と業務との間に大きな仕事量の差があったりするのも一因だったりするのでしょうね。

もちろん、患者様にそういうところを感じさせないのが、一流というかプロなんだってのはわかっちゃいるんですが、そうするとどんな職業なのかっていうのが世間に正しく伝わらないってことはよくあることだと思うのです。

その根拠の一つが、実習生さんのひとこと

「実習に来て、作業療法が分からなくなりました」

と。

大学や専門学校でまなんだことが、そのまま実践に使えない現実にぶち当たって、どうしたらいいのかわからなくなってしまうというそういうことでもあるし、外からみたリハビリテーション像と中で実際にリハビリテーションを実践する中で見えるものとの間にあるギャップに戸惑う、そういうことでもあると思います。

「作業療法ってこういうもんですよ」

と、きちんと言葉にできない自分にもその責任の一端があることは間違いないです。

誤解のない、わかりやすい表現で作業療法を伝えるってことは、言うのは簡単ですが結構難しいです。

それはやっぱり、言葉だけでは伝えきれないところがあると、自分が心のどこかであきらめてしまっているからかもしれません。

というか、実際その通りなんですが、それにしたってあきらめがよすぎるなあと、今日ふと改めて思いました。

というのも、リハビリテーション職の何人かと一緒のひと時を過ごすことがあったのですが、自分の言いたいことをあんまり深く考えずにそのままストレートに言ったら、「そうだよね」と共感を示してもらえたからです。

ああ、やっぱりまちがっちゃないんだなあという確認ができて、少し元気になりました。

そして、間違っていないのであればきちんと言葉にするなり、実践するなり、あるいはほかの方法を考えるなりして、きちんと考え方や方法論や実践を「誰にでも共感してもらえる形」で伝えることをあきらめちゃだめだよなと思ったわけです。

そういう思いになれたのは、今日言いたい放題言えたからなわけで、そういう場があることは非常にありがたいなあと思いました。

そして、言いたいことがいえるというか、言ったことが確認できる場を自分でもしっかりと作っていけるそんなスキルがほしいなと改めて思いました。

以上、小学生並みの感想でした。

誰かを指導する時に知っておくべき、成長の本質とは

作業療法では、臨床場面でしばしば誰かを指導する役割が求められる場合があります。

ひろえもん個人としては、あんまり得意じゃないというか、やりたいことでもないです。

しかし、その時に、やっぱり意識しておくべきだろうなと感じたことがあったのでメモついでに記事にします。

まず、成長について。

成長といえば、植物の生長とほぼ同義でとらえてしまいがちです。

イメージも同様にしている人が多い気がします。

どういうことかというと、人間も植物同様に水と肥料をやって、日に当ててやれば勝手に育つというそういうイメージを持っている人が多いという風な印象を持っています。

しかし、これは間違っているのではないでしょうか。

と思っています。

いくら環境設定だけしたところで人間は、植物のようにガンガン伸びていくとは限りません。

多くの人は伸び悩むでしょう。

それは、どの方向に延びるかが明確ではないからだと思っています。

植物のほうは、天に向かって伸びるのが基本で、あとは、そこから枝を広げるとい風にやることが明確でシンプルです。

指導者がその感覚で環境設定を行ったとして、たとえ指導者側にはその対象となる人が伸びるべき方向性が見えているとしても、与えられた側にはその方向性が見えないので、どうしても伸び悩んでしまうのです。

話はそれるかもしれませんが、現代人の場合は、試行錯誤や方向の検討能力が低い人が少なくないと思います。

きっと昔は生きるために必要な活動が人の行動を作り出していましたが、電化製品やサービス業の発達などによって、そういった行動を肩代わりしてくれるシステムが生まれて個人が自由に使える時間が増えています。

子供たちの中には、やりたいことややるべきことの方向性を自分で検討できるようにならないままに大人になる人もいる。たぶん、今はそんな世の中ではないでしょうか。

環境設定の前に、その人が自ら成長するための要素を持った人物なのかどうかを見極める必要があるとおもいます。

そして、指導に話を移すと。

指導者は、そこらへんを踏まえて、どんな方向にその人を導くかということを考えないとダメだなと思います。

指導や、その結果としての成長とはつまるところ、片寄りを生み出すということにほかなりません。

成長という名の偏りを生み出すことが、指導の本質だと思います。

効率的な方法を教えるということは、その方法を好んで用いるというかたよりを発生させることになります。

目の前の問題を片づけるために良かれとおもって行った指導が、長期的にみるとあんまりよろしくなかったりもします。

これは、片寄りをつくることが、一方でメリットをもたらす一方で、必ず何かしらのデメリットが発生させるということだとおもいます。

指導的な立場を演じる場合には、これを踏まえて、相手のデメリットに責任を負う覚悟が必要だなと感じます。

そう考えると、改めてバイザーって大変だなあと思ってしまうのでした。

「認知症高齢者の消費者相談 初の1万件超」のニュースがヤバい

たとえば

「認知症の父が必要のない屋根や庭などの工事を契約し600万円を支払った」

 

モラルの次元、善悪の観念でこの問題を解決するならば、

業者が悪い

ということになると思います。

 

しかし、現実的にはこんな業者を根絶するのは不可能です。

オレオレ詐欺がいつまで経ってもなくならないのと同じ。

 

利益の為には、悪いことをしても屁とも思わない。

そういう意思が世の中には確実に存在しています。

 

そして、認知症などによって判断力、検討力が低下した方々をカモる信じられないような人間が存在しています。

ヤバい。

人間不信になりそうですね。

 

認知症と消費トラブルの問題は、今後も消えることの無い問題だと思います。

それどころか、オレオレ詐欺同様に今後どんどん増える可能性さえある問題のような気さえしております。

根本的に解決するには、消費金額と意思決定を行政などが客観的にコントロールする方法を導入することが必要だと思います。

たとえば、オレオレ詐欺対策として銀行やコンビニのATMが引き出し上限額を20万円に設定しているのと同様の構造の対策が必要です。

現金での支払いの代わりに小切手での支払いにしておき、決済時に行政が間に入ってチェックを行うなどの対策を行うことができれば現実的にトラブルを減らすことがデキルと思います。

また、トラブルを発生させた企業などに対しては罰金などのペナルティーを課すなどすれば、そういったシステムの運営も可能になるのではないかと考えたのですがいかがでしょうか。

とはいえ、モラルの次元で解決できるのが一番なので、カネのために人間性を売り払う業者や人がへってくれると個人的には大変嬉しく思います。

 

社会保障の考え方の世代間のギャップをもっと真剣に考えてほしい。

社会保障に対する捉え方で、世代間で重要度に差が見られることが発表されました。

ひろえもん的には、それはは仕方ないと思います。

なぜなら、世代間で社会保障制度の中での負うことになる負担と得られるメリットの差がそのまま世代間の差として現れているのではないかと思うからです。

あるいは、その制度をどの程度必要とするかの差とも言えるかもしれません。

しかし、とにかくその差はあるものとして、このギャップを埋めることは必要だと思います。

そのための、世代間での対話が必要だと思います。

それを避けるのであれば、社会保障制度は若者からそっぽを向かれていつの間にか高齢者が置き去りにされるか、逆に若者が高齢者から搾取されてひからびるかのどちらかという極端な未来のどちらかが現実のものとなってしまうのではないでしょうか。

作業療法は医療の枠組みの中で実践されてきましたが、徐々に介護保険など福祉領域での展開も増えてきています。

作業療法が行われる原動力、原資が社会保障の枠組みの中にあることを考えると作業療法士としてもこのギャップについて、もっといろんな人に真剣に考えてもらえるとありがたいなあと思います。

参考:http://www3.nhk.or.jp/news/html/20140915/k10014602291000.html

「成功には人間関係が大切」というハーバード大学の研究の重さと、作業療法的視点から研究を批判する人に思うこと

当たり前のことにエビデンスがあるということはとても大切だと思う。

たとえば、今回ハーバード大学が行った研究は次のようなもの。

「どのような男性が将来性があり仕事で成功するのか?」というテーマに対して、268人の男性を対象に「IQ」や「飲酒の習慣」などあらゆる角度から行われ、20億円という研究費と、75年間という長い期間が費やされた。

そしてその結果は、

「将来性」は、IQや生活習慣とは関係なく、幼少期に母親と温かい関係を築けていたかどうかに左右される

というものだったらしい。

これは、多くの人が、感覚的に納得できる内容だと思う。

しかし、今までそのことを学術的に研究し、きちんとエビデンスとして示した研究は無かったはず。

だからこそハーバード大学はそれを研究したのでしょう。

たとえば、「全てカラスは黒い」の様にいくら感覚的に当たり前で、当然の事に思われることでも違うことは良くある。(例外はアルビノ)

だから、感覚としての「当然」に学術的お墨付きがつくことには非常に大きな意味があると思う。

主体としての自分の感覚で正しいことが確実であっても、異なる感覚を持つ人に客観的に伝えるには、自分の言葉だけではどうしても弱い。

だからこそ、研究を行いエビデンスとして誰もが納得できる形で示す必要がある。

ちなみにこの事実は、テレビ番組で紹介されたらしい。

そして、コメンテーターの意見や番組の構成的には、この研究に否定的だったようです。

曰く

「そんなことに75年もかけるって、ハーバードも大したことないね」と呆れながらコメント (キャスター 小倉智昭)

「ハーバードの将来性がヤバイね」と皮肉った (タレント ダウンタウン松本人志

「簡単に言うと、両親が健在で、たっぷりと愛情を注がれたらできる男になる…」と20億円を費やした研究結果に首をかしげた (タレント ダウンタウン松本人志)

などなど。

研究の意義に対して、否定的に見るタレントが多かったようです。

そして、ひろえもんは、そのことを知って「きっとそれが研究に対する世の中の捉え方なんだろうなあ」と思いました。

皆が当たり前と思っていることに、証明の価値が無いと感じる人はきっと多いのだと思います。

ひろえもんは理系の科目が好きだったのですが、たとえば物理の運動方程式や、状態方程式などの極端な例でなくても、数学の簡単な定理の証明さえ、「そんなの当たり前」と軽んじる人が多いと、いつも感じてきました。

確かに、自分が実践するときには、必要なのは「これが正しい」と言える初期条件と結果の対応だけ。

必ずしも、プロセスを順を追って説明、または証明できる必要はありません。

しかし、誰もが納得できる施策や、その方向性を決める為には、明確な根拠を示すことが出来たり、その根拠を集めて研究を行うことにはとても大きな意味があります。

そうひろえもんは思います。

作業療法は、感覚的な「あたりまえ」やその積み重ねを根拠に実践をおこなっていますが、今回のことで改めて「それでええのかいな」と思ったので、ちょっと記事にしてみました。

個人の実践とは違う、他者への正当性の証明という次元に視点を移したときに「当たり前」を疑い、研究することにはとても大きな意味があるんじゃないのとおもうのですが、皆様いかがでしょうか。

参考:http://news.livedoor.com/article/detail/9252976/

作業療法は「困っている人」のためだけのものではないはず

作業療法の対象となるのは、もっぱらなにかで「こまっている」人です。

しかし、作業療法は本来「将来困るかもしれない」人たちや

今も今後も健康そのものの生活を送る人たちにとっても、

十分に役立つ物だと思います。

そのことをいかにして示すかは

現在必要としている人たちにより良い作業療法を行うためにも

とても大切な物だと思います。