リハビリテーションはお手伝いじゃない 作業療法にも通じる人助けの奥義と 人助けがテーマの漫画「スケットダンス」最終巻より

(2020/07/06  割と大幅加筆修正)

作業療法士の語る「リハビリテーション」はなかなか理解されないことが多いです。でも、同じ意味を「すっ」と言ってる漫画のセリフがあるのでご紹介します。

というわけで、この記事には、まんが「スケットダンス」最終巻の壮大なネタバレが含まれています。

もし、出来れば、このスケットダンスという漫画、素敵なので、一巻から、最終巻まで自分で読んで、噛み締めていただきたいので、読むつもりがある人は、そっとブラウザバックしてください。

前置き 実体験した過剰なお手伝いを医師から提案された件

まずは、作業療法の対象者の方と一緒に作業療法中に、とあるドクターの先生から、言われた衝撃的な一言の話から入りたいと思います。

その発言とは、

「なんでやってあげないの?やってあげる方が親切だよね」

という一言。

人助けに関する見解の相違を感じた瞬間でした。

患者様が、貼り絵をやっていたのですが、確かに作業ペースはお世辞にも早いとは言えず、その先生がやれば10ぷんくらいで終わる内容に30分以上の時間をかけて取り組まれていた場面でした。その方は手伝って欲しいとも、もうやりたくないとも一言も言われていませんでしたし、むしろ楽しそうに黙々と取り組まれていました。

その時は、正直かなり戸惑いながら、「どうしようかな」と思いながら、リハビリテーションとはという話をその先生とすり合わせる作業をしました。

ぶっちゃけ、

先生それをやっちゃあ、リハビリテーションとしちゃあおしまいでしょう。

ということがありました。ご説明したら、納得はしていただけましたが、リハビリテーションの構造は継続的に説明しないといけなくてそのコストが都度発生すると、改めて確認することになりました。

困ってるのになんで代わりにやってあげないの? という呪い

リハビリテーションの現場を他職種が見た時に、

困ってるんだから、代わりにやってあげないの?

とか

ともすると、

なんで意地悪するのさ?

なんてニュアンスで、尋ねられることもあったりします。最近は、おそらく協会レベルの認識がかわってきたのでほとんど言われることがなくなってきたのですが、それでも、そのあたりは世の中の雰囲気に影響を受ける部分ですし、リハビリテーション・作業療法を語るのは難しいです。

飢えてる人に食べ物を与えるのは正しいか

スケットダンスはもうしばらくお待ちください。

たとえ話をひとつ。

先ほどの話ですが、つまり、いち作業療法士としては、直接的な対処療法は、個人的には緊急的なもので、状態安定したらすぐにやめるべきと感じています。

無用な援助の継続は、本人能力の低下に直結するからです。

とある小説に

『食べてない人に

「人はパンのみに生きるにあらず」

って言っても

うるせえ馬鹿ってなもんだろ』

という、一節がありまして、妙に気に入っているのですが、これは対処療法の重要性を端的に表現しています。対処療法は極めて有力な選択肢の一つです。

一方で、飢えてない人物にいつまでもパンを低コストで供給するのは違うだろ、って思うのです。それは、その人が、自分で自分の人生を管理する力を奪うことにつながるからです。

飢えている人には、自分でパン、もしくはそれに代わる食べ物を自らゲットする能力を身につけてもらうことが、その人の生活の豊かさを増やすことになります。

作業療法における支援の量も、評価の元に、適切な量と質で提供されないと、無用な依存を引き起こしてしまったり、逆に栄養失調を引き起こしてしまうことになります。

リハビリテーションとは、再構築である

そもそも作業療法は、リハビリテーションの方法論の一つです。ですから、リハビリテーションの枠組みを踏まえて、勝負しなければならないと思います。

つまり、その人の人生の復権に貢献しないことがらを、「手助け」と称して実行していても、それはもはや作業療法とは呼べない、別の何かということです。

それは人生の再構築とも呼べる過程の一旦であると思います。その人の人生を再構築する手助けをするのが、リハビリテーションであり、作業療法と考えます。

作業療法と人助け

繰り返しになりますが、作業療法士は、ある面では確かに「人助け」を行う仕事です。

しかし、直接的な援助をいつまでも質と量を調整せずに、供給し続けてはいけないということです。

なぜなら、当事者である作業療法の対象者が、「じぶんでできるようになる」、つまり、主体的に選択、行動、決定が行えるよう支援するのが作業療法士という仕事だからです。

ですから、生活の再構築の支援を行う作業療法士は、支援とは何か、作業療法における「人助け」とは何かを理解していなければなりませんし、それを対象者や家族、他職種と共有しておく必要があります。

漫画 「スケットダンス」最終巻における人助け

お待たせしました。スケットダンスです。この漫画のセリフが、リハビリテーションにおける人助けの根本を表現していると確信します。

ちなみに、冒頭でも多少触れましたが、スケットダンスという漫画は、高校生三人組が、いろんな問題に面白おかしく時にはシリアスに挑むなかでの、成長を描いた学園ものです。シリアス回は、いろいろと考えさせてくれる漫画だったので結構好きで、連載中から読んでおりました。

その中でも、特に感銘を受けたのが、最終巻で、主人公が自分の人助け観を語る場面でした。

それが、学園理事長から「人助け」とはなにか、と問われての以下のセリフになります。

©︎篠原健太/集英社

「理解者になること

乗り越えることは 変わることじゃなくていい

その人が 今いる位置を認めて 愛しいと思えるように

背中を押すこと」

どうでしょうか。

私個人は、初めて読んだ時に、ああ、その通りだな、と思いました。うまく言うものだなあと思いました。

このセリフは、まさに作業療法とか、リハビリテーションの理念そのまんまです。いろいろな要素を内包しています。支援する側とされる側が互いを対等な存在と感じないと、なかなか理解できないでしょう。その意味で、微妙なニュアンスをうまく伝えうる貴重なセリフだと思います。

冒頭の医師とのやり取りにこのセリフを当てはめると見えてくるものが今回伝えたかったことです

冒頭エピソードを少し振り返ってみたいと思います。

対象者さんが大切にしていたことは、「やってる、やれてる感覚」とそれを実現しつつある自分自身という存在なんですよね。決して、貼り絵がクオリティ高く仕上がることでも、ラクに出来上がることでもないんですよね。

いまの自分ができる精一杯を取り組んでいる自分自身を肯定する力こそが、作業療法対象者の主体性であり、それをそっと支えるのがリハビリテーションないし、作業療法士の仕事なのではないでしょうか。

人助けとは

「理解者になること

乗り越えることは 変わることじゃなくていい

その人が 今いる位置を認めて 愛しいと思えるように

背中を押すこと」

作業療法士にできる手助け

本人ができることを本人がやって、本人がそれでいいと思えるように支援・応援することが作業療法士の仕事と思います。

極論、方向性が正しいのであれば、直接的な介入がなくても、ちょっとした声かけを適切なタイミングで適切な量と質で行うことで、その人の支援が完結するかもしれません。

©︎篠原健太/集英社

いわゆる勇気づけってやつですね。

足りないのはもちろんいけないし、支援しすぎるのはもっとよくない。

だから作業療法士は、専門職なんですよね。その量的質的コントロールが職人技だから需要があるのだと思います。

ほんとうのところは、作業療法士なんていう職業がなくても、困っている人の周りのひとが「大丈夫だよ」とちょっと応援してあげて、本人も「ありがとうでももうちょっと頑張ってみるね」と、その相互作用でいけたら一番いいんです。作業療法士なんていらない世の中が一番いいんです。

世の人がみんなそれに代わる行為を日々行うことができるのが一番望ましいと思ってます。

でも現実はそうじゃないから、その辺はわきまえて作業療法士として対象者の方にできることをやり過ぎないようにやっていくことが大切だなーと思ってます。

ということで、以上スケットダンスから教わった「人助け」の極意でした。

蛇足

その他にも、作業療法士として参考になるなあと思った内容はたくさんあります。

たとえば、最終巻で、主人公たちが文化祭の出し物を考えるシーンがあります。そのシーンでの、やり取りや思想はまさにユニバーサルデザインを体現しています。

みんなが、個性を発揮して参加できるためにはどうしたらいいか、そのためのありようはどうあるべきかと知恵をしぼる。決してシンプルなだけでは実装が難しいため、このコストを現実では渋るんだよなあと、でも大事なんだよなあ、改めて痛感するいいお話です。

そのあとの、スイッチのあれこれとかも感動的なんで、最初から最後まで、ぜひ全巻読んでいただきたい。スケットダンス。

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作業療法士の立場は、治すことではなく癒すこと

治らない病や怪我を生きる人が、前向きになれるように支援をする。

それが作業療法士のあり方や、役割です。

治すことや、治ることがベストであるという価値観にとらわれず、あるがままの中の選択肢から最善を目指し、どんな結果になっても、「それでいい」と肯定する。

「今度はどんなことをしよう?」

「今度はこんなことがしたい」

という思いを引き出して、実行につなげる。

生きる力と生きがいにつなげる。

で、問題は果たしてこれは医療なのかということ。

医療とはなにか。

どの範囲までが医療なのか。

医療であるかどうかが問題になるのは、例えば保険がつかえるかどうかの問題が関わってきますね。

ここについては、胸を張って先人の方々の過去の実績から「医療である」と言い切れるのですが、その辺についてはまた詳しく書いていきたいと思います。

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社会と隔絶されていたら、作業療法じゃない

作業療法として提供されるものは、全て、社会活動や外の誰かと繋がりを持ったり、またそれが感じられるようなものでなければならないと思っています。
なぜかというと、前回の記事でまた書きますと言いましたが、作業療法は医療の一端だからです。
それは狭い意味での医療ではなく、これからの時代により必要とされることになる、社会的医療だからです。
社会的医療とは、その人の社会的な回復を目指すということです。
ICFという枠組みは、まさにそのことを雄弁に語っています。
病気になった時に提供さるべきものは、これまでの医療の枠組みにとどまらず、その人が社会とのつながりの中で自分らしく生活できるようなありとあらゆることであるという考え方です。
これは、世界の医療保健の統括団体であるWHOが策定勧告したものですが、まさに作業療法の理念そのものです。
この理念の実践には当然、作業療法は積極的であらねばならないと思います。そして、そのためにはありとあらゆる作業はその人と誰か、もしくは社会との繋がりが先になければなりません。
作業療法と称して、いつまでも無目的にROM訓練を行うのが、良い顔されないのはそういうわけです。
逆に、その先にきちんと目指すものがあり、それが社会参画につながるものであれば、だれもなにも文句を言わないと思います。
そうした枠組みから外れた作業療法は医療ではないです。
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作業という言葉、たぶん普通は専門用語として理解出来ない

作業療法士が用いる、「作業」ということば

作業療法士が用いる「作業」という言葉は普通の作業と意味が違うのです。

そういう説明をされても、しっくりこないと思います。

そこで、最近は「作業」を「生活行為」と言い換えたりしてます。ようするに「作業」という言葉は、「人間の行う活動」くらいのざっくりとしたイメージをもっていただければ、あたらずともとおからずです。

そこから、ちゃんと限定するとしたら、たとえば「作業」を行う主体である人自身にとって何らかの意味があることは「作業」になります。 そんな「作業」を、対象者の人がより良く生活できるようにうまく用いるのが作業療法士の仕事です。

うまく作業を行ってもらうには、把握しないといけない変数がたくさんあるので、本当にクオリティの高い作業療法をするためには感覚的な要素と論理的な要素の両方を高いレベルで統合できる必要があります。

要するに、頭デッカチでも、なんとなくでもだめです。

そういう、いろいろな要素をたくさん詰め込んだ言葉が「作業」です。

作業療法の実践には、 クリエイティブな発想と、実行力、マネジメント能力が求められます。

余談ですけれども、そうして必要な能力と比較した時の作業療法士が得られるお 給料は、全く割に合わない仕事だと思います。

そんな作業をもちいておこなう作業療法ですが、実践の内容からかけ離れたイメージを持たれてしまうことがあるようです。日常語としての作業という言葉が持つイメージが影響しているのは間違いありませんが、やっぱり仕事とか、単純作業とかそういうイメージによっていくところがあるのが残念です。

その辺もきっちりと作業療法士が実践を伴って、社会に対して説明をしていけるかどうかが大きなポイントになるのだとおもいます。

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今や「理学療法は生活動作の専門家です」らしい

facebookで流れてきたので気になって調べたら、こんなポスターが。

http://www.japanpt.or.jp/upload/japanpt/obj/files/aboutpt/2015poster_2.pdf

作業療法士が応用動作の専門家で、理学療法士が基本動作の専門家というなんとなくの住み分けがあったのは今は昔の話なのかもしれません。

これは、PT人口の飽和も大いに関係しているでしょうし、PTが今後認知症分野をはじめとした精神領域で活躍していく上での布石だと思います。

別にそれはそれで必要なことなのでしょうから、問題ないと思います。

問題なのは、OTがきちんと戦略的に情報発信を行えていない点です。

OTがきちんとこれまでの取り組みと今後についての情報発信を行っていかないと、多分、パイの奪い合いになっていくと思います。

OTとしては、「心が動けば体が動く」をきちんと実践してきたのですが、そのノウハウを体系化して、一般の人々にまで届ける努力をしていく必要があるのではないでしょうか。

先進的なPTさんは、OTが先進的に取り組んできた、その辺もきちんと日常の業務の中に取り入れ始めています。

一人一人のOTが自分の作業療法観を明確にできないと、今後ますます、作業療法が何なのかっていうことがわからなくなっていくのだろうと、強く感じた出来事でした。

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作業療法における研究エビデンスの質の考え方

エビデンスに基づく作業療法(EBOT)は、エビエンスに基づく医療(EBM)のひとつであり、現在ホットな考え方であります。

EBOTにもいろいろな捉え方がありますが、データの蓄積を作業療法の中に生かそう、普段の作業療法の臨床にきちんとした根拠を持っていこうというそういう考え方です。

つまり、作業療法実践に後から理由をつける(考察する)だけでなく、それらの蓄積をきちんと統計処理したデータとして根拠に変換していこうじゃないか、それをもとにして作業療法の介入を行おうじゃないかというそういうこころみ。これがこの記事で使うEBOTの意味だと思ってください。

エビデンスには「質」がある

そのエビデンスには「質」があるという考え方はご存知でしょうか?

簡単にいうと、どの程度信頼が置けるか、ということの格付けです。

そもそも、エビデンスとは根拠のことです。根拠とは、人が何かの行動をしたり判断を下したりするときの判断材料となるような情報のことですから、「質」とはつまり、こういうことです。

判断を下すうえで、

とても参考になる情報は、エビデンスとして質が高く

あまりあてにならない情報は質が低い

こういうことになります。

「何を当たり前のことを」

と思われるかもしれませんが、とても大切なことです。

 

なぜなら、自分の感覚であてになると確信して判断したことが、実際にはあんまりいい結果につながらなかったという事はよくあることだからです。

たとえば、目の錯覚は、人の視覚が現実を歪めて認識するために起こる現象です。

感覚の歪みと同様に、歪みは人間の思考や判断にも起こり得るため、どんな情報が根拠として優れているのかということを主観的に判断する事はあまり得策ではありません。

どういった情報があてになって、どういった情報には価値が低いのかということを客観的に明らかにしておくことにはとても意味があるのです。

エビデンスの「質」 本題

前置きが長くなりましたが、本題の研究エビデンスの質の話です。

皆さんは、自分が書いた事例報告と、権威ある先生がいった一言はどちらがよりエビデンスとしての質が高いと思いますか?

研究エビデンスの質のクラスは、以下のようになります。(上から順に質が高い

1a 複数のランダム化比較試験(RCT)の体系的レビュー

1b RCTが一つ

2a 複数のコホート研究の体系的レビュー

2b コホート研究が一つ

3a 複数のケースコントロール研究の体系的レビュー

3b ケースコントロール研究が一つ

4  事例研究、報告

5  権威者の意見

ご覧の通り、権威者の意見は、裏付けとなる証拠がない場合や批判的吟味がされていない場合、あなたが書いた事例検討に劣るエビデンスしかありません。(と、EBM Oxford Centerは言ってます

補足

ランダム化比較試験というのは、統計学的な研究手法の一つです。

素晴らしい手法なんですが、その理由が気になる方は、下記参考文献をご参照ください。

コホート研究は、影響を与える因子の投入・暴露の前後を比較対照する実験で、放射線の健康調査などでよく行われます。

ケースコントロール研究は、後ろ向き研究ともいわれ、結果が得られている状態で、その結果を左右した因子は何かを比較対照によって明らかにする研究です。

研究法の詳細については、各種研究法の教科書が出版されているのでこちらもとりあえず下記参考文献にてご紹介します。

最後に

作業療法のエビデンスの最新情報は、やっぱりインターネット上で、しかも英語で確認ができるとのことです。

英語、大事ですね。

参考文献

文光堂;作業療法士 プロフェッショナル・ガイド 作業療法とは何か;編集主幹 杉原素子 古川宏

三輪書店;作業療法士のための研究法入門;鎌倉矩子

医学書院;作業療法研究法 (標準作業療法学 専門分野);山田孝

ダイヤモンド社;統計学が最強の学問である[実践編]—データ分析のための思想と方法;西内 啓

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作業療法士の役割は、作業と人の媒介になること

はじめに

作業と人は不可分のものとして良く説明されるし、そのとおりだと思う。

しかし、ひょっとするとあえて独立させてみるとちがった視点が得られるかもしれない。

また、本来不可分なはずの作業と人とが、分たれた状態になっていることもある。

作業療法士の役割は、そうした状況を円滑に解決することにあるのではないだろうか。

人の生き甲斐

人は、何かをするためにいきている。

それを「生き甲斐」とよぶ。

何を生き甲斐とするかは人それぞれで、それは反社会的な内容でない限りなんであっても認められている。

疾患や障害によって、それまでの生き甲斐を喪失した人や、環境の変化によってその人の生き甲斐となる活動の継続が難しくなる場合がある。

そんなときに作業療法士は、素早く問題解決のために動けることが求められるように思う。

あえて分ける

作業と人は、渾然一体となって始めてその魅力を発揮する。

実行に移す人がいないと、いかなる作業もただの概念でしかないし、作業を行わない人は自分の存在意義を確認することが難しい。

それは踏まえたうえで、あえて作業と人とを分けて評価できることが、とてもたいせつだと最近思うのです。

その方が自他ともに構造が分かりやすいし、その結果再現性も高まるから。

再現性の高さは、上記の様な場面で素早く動けることに繋がる重要なポイントだと思っています。

分けることによる他のメリット

依存などの問題に対処する際に役立ちます。

課題

還元主義的な手法なので、コレに頼りすぎるのは人と作業をトータルで把握することをさぼってしまうことにつながるかとおもいます。

技術はあくまで手段であって、目的ではないので、自分が何の為にその手段を用いたのかをしっかりと意識しておくことが大切なのかなと思います。

おわりに

時間とマンパワーが不足しているなかで、どのようにしたら、作業療法士としての仕事が全う出来るかなあと考えたことをつらつらと書きました。

あえて、作業と人を分けて評価の視点などを語ると、作業療法でやろうとしていることが単純化されてわかりやすいとおもいます。

逆に、作業療法士は人も作業もしっかりと評価してみれないといけないので、本当に国語力の問われる仕事ダなあと思います。

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作業療法の考え方をすべての人が掴めるようなコンテンツを作り、受け取ってもらうには 言葉編

はじめに

作業療法の考え方を表現するときに、OT語を多用していませんか。(ひろえもんはついつい使ってしまいがちです。

たとえ、どれだけ作業療法の本質をついていた言葉でも、一般的、日常的な言葉からかけ離れてしまいすぎると作業療法になじみの無い、聞き手にうけとってもらえません。

どうしましょうか。

前提となる構造

たとえば、精神や心についての情報化は一律化が難しく、言語化して落とし込むには膨大な情報が必要です。

作業療法の精神や哲学も同様で、それに基づくさまざまな理論やその中での用語もまたしかりです。

膨大な情報をそのまま言葉にしてしまうと、正しく具体的に把握はできたとしても日常で使いこなすにはすこしおもすぎます。

実用化するためには、簡単な表現をする必要があります。

それを簡略化するためには、抽象化が用いられる場合が多いです。

「表情がかたい」「思考がまとまらない」という表現を精神領域では普通に使いますが、一般の人にはあまりつたわりません。

その原因は、上記のような抽象化された表現だからというのがあるように思います。

その言葉を日常的に、感覚のレベルにまで落とし込んでつかえている人にとってはとても便利な表現ですのでとても使える道具になります。

一方で、そのせいで、作業療法になじみの無い方々にはおおよそ直感的に理解不可能な表現もたくさんあります。

これは一般対象者の方々を含むものであります。

生じている問題

作業療法士が一人でも十全な結果を出せるような仕事をしているのであれば、それでも問題ないです。(たとえば天才数学者。よのなかの半分以上の人が彼の操る数式を理解できない。

しかし、そうではありません。

当事者や家族、周囲のコミュニティ、はては行政組織までと幅広い協力を行いながら実務を遂行する必要のある仕事です。

まして現在、医療費や保険料の財源が厳しさを増している中で、より多くの社会的な資源を金銭的なコストをかけずにどれだけ巻き込むかを求められる時代になっています。

つまり、だれでも本質が一瞬で理解でき、納得できる言葉が必要です。逆にそうした言葉が、優先的に使われなければ、世の中の限られた人としか協力することができないままです。

そして、現状を見てみると、作業療法士には「あたりまえ」のことをOT語を用いて表現しており、その代償として、作業療法と直接かかわりのない人びと(たとえば、当事者の家族や、同施設の多職種のスタッフ)を、「なんだかよくわからない」と、作業療法から遠ざけてしまう結果となっています。

先述のとおり、作業療法がより多くのひとに知られることが求められる時代において、このような事態が放置され続ける状態は好ましくないです。

問題への対処法

いくらでもあると思いますが、たとえば、この問題を解決するには以下のような方法があげられると思います。

  • OT語について、きちんと定義したものを網羅的に示し、それを公開することによってだれでもOT語が理解できるようになってもらえるよう、言葉の意味を定義・説明する。
  • OT語の使用を中止し、辞書に掲載されている日本語に準じた説明言葉づかいを行う

などなど。

こうした工夫を日常的に意識し、また実践する必要があります。

やはり、何もしないでいると結果として作業療法というものは社会から消え去り、結果として対象者から作業療法を奪う結果となってしまいますから。

そうならないためには、いかに多くの人を共感の渦に巻き込めるか。

その人たちと一緒に課題解決を図ることができるかということにかかってくるように思います。・

おわりに

同じことは作業療法士間でもいえると思います。

専門学校や大学といった養成校は現在、基本的な手技ばかり教えたり、逆に講義形式で抽象的な理論ばかりに力を入れたりと、力を入れる内容に偏りがある場合も多いようです。

自分自身が学んできたことに偏りがあることを自覚していないと、お互いの言葉に対する理解がずれたままでいつか溝が大きくなり事件や諍いに発展していくかもしれません。

まずは、相手の立場に立ったり、自分を振り返ることで、自分と相手の「あたりまえ」の違いを把握でき、それによって協力関係や協業関係の構築が行いやすくなるのではないかと思います。

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作業は「できりゃあ、なんでもいい」という物でもない

この記事を読んで、作業について改めて考えさせられました。

はじめて逆上がりが出来た女の子:成功後の一言が指導者を撃ち抜く

要約すると、

鉄棒の逆上がりができない女の子が、先生と一緒に逆上がりを必至で練習して、ついに逆上がりが出来たときに発した心からの言葉が「もうこれで、逆上がりの練習しなくて良いんだね!!」だったというもの。

 

ふと、臨床の場で作業療法として提供されている活動が、対象者の方からこんな風に受け取られてしまうことがあるんじゃないかと、つい考えてしまいました。

上記の現象は、客観的には「教育」という価値があるけれども、当の本人にとっては何の意味も無い活動が出来るようになる「訓練」が半ば強制されていたために起こったと考えられます。

このことは、「出来た方がいいよね」というのが、指導したり助言したりする立場の人間の独りよがりだったとしたら、いくら技術的にできるようになったとしても、実践は絶対に継続されることは無いということを証明する強力な例だとおもいます。

客観的な立場から作業療法士が「出来たらいいな」と思う活動を、どのようにして対象者にとっての「作業」にするかは、ひとつ作業療法士としての腕の見せどころなのではないかと思います。

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「癒す」という作業療法の重要な視点は、いまこそ必要とされている

作業療法は、身体障害領域の一部を除いて対処療法的な側面があります。

それは、決してネガティブな意味合いを持たないとひろえもんは確信しています。

事実、現状なおらない疾患というのは、山のようにあるのではないでしょうか?

糖尿病、肝炎、統合失調症、ALS、脳性麻痺、認知症 …



こうした疾患において、作業療法の対処療法的な側面はむしろ非常に大きな強みだと思います。

「病いを癒す」ことを通して、対象者の喪失した自身を取り戻すことを支援したり、新しい生活を再構築する手伝いをしたり、発生が予想される問題に一緒に介入したり。

「作業」を用いて、このような過程に関わっていくことは、決して病因を治癒する訳ではなく、その意味に置いて対処療法的です。

しかし、その実践が徹底されたのならば、対象者のQOL向上における作業療法が持つ意味はとても大きいのではないでしょうか。

もちろん、対象者が何をもって「癒し」を感じたり、「元気」になれるかということについては、個人差が大きいことはいうまでもありません。

ひょっとすると、対象者自身も、どんなことに「癒される」のか分からないかもしれません。

こういった部分は、特に終末期の作業療法で重要になる事柄だとおもいます。

困難に直面した状況で、「癒し」を実践する為には、作業療法士に「ハートは熱く、頭はクールに」が求められます。

そのようなあり方を、今後身につけていくことが出来たらとおもいます。

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