目に見えないことを取り扱う難しさと重要性 作業療法士に求められること

ぱっと見やその瞬間の事実だけでは、うまく解決できない事柄にうまくアプローチ、介入して解決への方法を模索できることは、とても大切です。

たとえば、認知症の方の問題行動を、さまざまな文脈からとらえて、ご本人との共感をヒントにしながら、問題となる行動がなぜ起こるのかを整理することは、ご本人のQOLを向上させるだけでなく、その周囲の人たちと本人のつながりを健全に保ち続けるためにとても大切です。

こうした目に見えるところだけを基にしてアプローチしても解決しにくい問題を、目に見えない要素を加えて解決に導くことが得意な作業療法士は、本当に尊敬しています。

そしてこれは、作業療法士の重要な専門性のひとつだと思います。

「見えないこと」を根拠に行動するのは難しい

作業療法士は、目に見えないところが情報として集約できるので、具体的な提案ができます。

またまた例えば、認知症の方への周囲の人たちのかかわりを考えてみましょう。

周囲の人が認知症の方の特性がわかっているかどうかはもちろん重要なのです。

しかし、それは作業療法士の専門性として言い切ってしまってもよいくらいに、むずかしく、ハードルが高い事柄だと思います。それに、わかっちゃいるけどできないということもあるでしょう。

発達障害のお子さんと親御さんにも同じようなことが言えます。

家族などの周囲の人の言動、普通は害や悪影響よりも、メリットが大きいと思われるような言動が、本人の問題行動を引き起こしていることは、日々の臨床のなかでよく見ます。

良かれと思っての行動が、当人に対するストレスやプレッシャーとなって、二次障害を引き起こしていることもままあります。

それは、周囲の人が思うその人と、本人の人となりや個性・障害の間に大きなギャップがあるからです。

そして、それは目は見えないものであることが多いです。

たとえば、精神障害は目に見えません。

具体的に見えるのは、その人の表情、行動です。

それらを総合して、適切な判断をするには、情報や知識や経験が必要ですので、まず判断することがむずかしいです。そして、その判断をもとに実際に行動を起こせるかというと、それはさらに難しいです。

作業療法士が「可視化」することの重要性

だから、作業療法士は、

「こういう関わり方をすると、うまくいった」

という経験を周囲の方にしてもらえるような提案ができることが大切と感じています。

理由や理屈はとりあえずおいておいて、

「やり方しだいでなんとかなる」

という感覚を本人も周囲のひとも得られるような具体的提案ができると、まずまずな作業療法ができたといってよいかな、と自分自身に言い聞かせています。言い聞かせます。

だから、作業療法士は、その人の生活における困りごとを整理し、解決するための方法を提案するために、きちんとその方の目線に立って、同時に客観的に評価を行い、目に見えないことを情報化、可視化することとても重要で、それが求められていることであると思います。

求められるのは作業療法士の評価を共有すること

また、すぐに解決できなくても、状況をきちんと整理して評価を対象者の方やその周囲の方と共有する、そのこと自体の意義も大きいです。

それは、

「なんだかよくわからないけど困ってる」

という状態を整理できるだけでも、

「『わからないこと』がわからない」

という混沌とした状態を脱することができ、

目標やゴールが明確になります。

つまり、問題解決への道筋が明確になります。

「なんだか困ってる」を「ここが困ってる」へ

同じ暗闇のなかでも、真っ暗闇とトンネルのように、目指すべき明かりが見えているのとでは、人間の感じるしんどさはまったく違うものです。

骨折や麻痺などの身体的なリハビリテーションにおいても同様のはずで、

「これがしたい、だけどあれが問題だ、だからそのためのソレ(治療介入・プログラム)だ」

という説明が丁寧になされているかどうかは、回復の度合いに大きく影響すると思います。

患者様の主観としては、

「これまでどおりに、服を着ようとしたら着れない」

のであって、

「過剰努力によって連合反応が起こって、結果として重心が支持基底面から出てしまう」からでもないし、

「ギプス固定および三角巾による固定による運動制限によって、僧帽禁や広背筋などのビッグな筋が短縮して関節可動域が小さくなっている」からでもありません。

そういう、「みえない」「わからない」ところを、いわゆる専門的な知識をもとにして、どれだけ作業療法の対象者の方の主観とすり合わせていくか、問題の認識の合意に至るかということが、治療効果の有無を分けます。

そして、それがエビデンスのある作業療法につながると思います。

ようは、説明責任を果たすってことです。

コンパクトに伝える

主観とのすり合わせにおいて、専門用語を羅列してもらちがあきません。

専門用語を使わなければならない必然性もありません。

対象者の方が、理屈を感覚で理解できればよいのです。

0a48f35dd94383ce9b827ff22a97be55_s.jpg

それが可能になる程度にフラットな表現でコンパクトに伝えましょう。

そうすることで、介入の中での確認が時間をかけずにつどつどコンパクトにできます。

事象の整理は作業療法士の専門性

繰り返しになりますが、「見える化」は、作業療法士の専門性の重要な柱だと思います。

何がその役に立つのかは本当にわかりません。

自身にとって趣味や、遊びの範疇の経験が、相互理解を助けることに役立ったりします。

自分の経験をフル活用して、知ろうとすること、

普段からいろいろな経験を、自分の学びにすること、

これらが作業療法士の「見える化」をスムーズにし、仕事をよりやりがいがあって面白いものに変えてくれると思います。

対象者の自尊心を引きだすには

「わたしなんかもうだめ」

というひとに対して、作業療法はできることがたくさんあるはず。

だってなんでもできるんだから。

何を使ってもいいという、そういう自由度の高さこそが作業療法の大きな特色だと思う。

それと同時に、自由度の高さに振り回されることなく、作業療法の現場に於ける影響力をコントロールできてこその作業療法である。

対象者の自尊心が高まるためには、その人が自分を大切に思えるような、そういう認知を促すような活動が提供できることが大切になる。

つまり気づきを促すことが大切になる。

言葉を使ってもいいし、文章を書いてもいい。

絵にしてもいいし、粘土で形作ってもいい。

紙を切り抜いて見たっていいし、縫い合わせてもいい。

削り出してもいい。

一緒に散歩に行ってもいい。

どんな活動を使ってもいいから、「自分って悪くないぞ」と思えるような体験をしてもらうことが大切になる。

d91dbdf0d0c72185faca41b4ed90cfdb_s.jpg

その体験の根本はやはり気づきだと思う。

「自分ってこんないいところがあったんだ」

「自分にとって心地よい、こんな体験があったんだ」

という気づきが、そしてそれを欲する気持ちが、生きるという気持ちに繋がるのだと思う。

誰かの言葉を通してではなく、生の体験から自分で言葉に起こしたそういう気づきこそがひとを変える手がかりとなるのだと思う。

その活動はきっと、新規性が高いものが良いのではないかと思う。

最初は思わず面食らってしまったり、少しハードルが高く感じられるような、そういう少しチャレンジするような活動がよいと思う。

少し高いハードルを越えた時、そこには新しい広がりがある。

できることを繰り返しても、質は向上するが同じことしかできるようにならない。

できないことに挑戦し、達成するからこそ「自分はやれる」という感覚はより強固なものとなる。

作業療法士は、馴染みの作業を提供するだけでなく、新たな作業を提案できるような存在でありたいと思う。

とくにMTDLPが、これから普及していくだろうことを想定してそう思う。

作業療法士の役割は、作業と人の媒介になること

はじめに

作業と人は不可分のものとして良く説明されるし、そのとおりだと思う。

しかし、ひょっとするとあえて独立させてみるとちがった視点が得られるかもしれない。

また、本来不可分なはずの作業と人とが、分たれた状態になっていることもある。

作業療法士の役割は、そうした状況を円滑に解決することにあるのではないだろうか。

人の生き甲斐

人は、何かをするためにいきている。

それを「生き甲斐」とよぶ。

何を生き甲斐とするかは人それぞれで、それは反社会的な内容でない限りなんであっても認められている。

疾患や障害によって、それまでの生き甲斐を喪失した人や、環境の変化によってその人の生き甲斐となる活動の継続が難しくなる場合がある。

そんなときに作業療法士は、素早く問題解決のために動けることが求められるように思う。

あえて分ける

作業と人は、渾然一体となって始めてその魅力を発揮する。

実行に移す人がいないと、いかなる作業もただの概念でしかないし、作業を行わない人は自分の存在意義を確認することが難しい。

それは踏まえたうえで、あえて作業と人とを分けて評価できることが、とてもたいせつだと最近思うのです。

その方が自他ともに構造が分かりやすいし、その結果再現性も高まるから。

再現性の高さは、上記の様な場面で素早く動けることに繋がる重要なポイントだと思っています。

分けることによる他のメリット

依存などの問題に対処する際に役立ちます。

課題

還元主義的な手法なので、コレに頼りすぎるのは人と作業をトータルで把握することをさぼってしまうことにつながるかとおもいます。

技術はあくまで手段であって、目的ではないので、自分が何の為にその手段を用いたのかをしっかりと意識しておくことが大切なのかなと思います。

おわりに

時間とマンパワーが不足しているなかで、どのようにしたら、作業療法士としての仕事が全う出来るかなあと考えたことをつらつらと書きました。

あえて、作業と人を分けて評価の視点などを語ると、作業療法でやろうとしていることが単純化されてわかりやすいとおもいます。

逆に、作業療法士は人も作業もしっかりと評価してみれないといけないので、本当に国語力の問われる仕事ダなあと思います。

作業療法、リハビリテーションとはデザインであるのでこのスライドが参考になると思う

デザインと作業療法って共通点が多いと思います。

例えば・・・

正解は一つじゃない

一つのアウトプット(結果)に対して、色々な意見がある(出る)

協力・連携が大切だけれども難しい

表面的なトレンドは変遷する

論理性を超えた、人間的な部分に作用する

などなど…

「作業療法をデザインする」

なんて言葉も、時折聞かれたりするくらいです。

チーム医療が叫ばれる中で、以下のスライドには参考になる部分が多いなと思ったのでご紹介します。

形のない気持ちを、投影できるということは、それだけですごいこと。 創作活動を通して。

作業療法では、創作活動を用いることがあります。

というか、作業療法と創作活動は不可分です。

重要な治療手段であると同時に、評価介入の有力な手段でもあります。

たとえば、水彩画のように白紙に鉛筆や絵の具で絵をかくとそこには、多かれ少なかれ、自分の気持ちや感性が知らず知らずのうちに投影されています。

意外なことに、健常者といわれる方になればなるほど、本来の自分の感性から遠ざかった絵を描くことが多いように思います。

それは、「うまく書かなければならない」という、絵をかく主体である自分自身へのプレッシャーであったり、物ごとを記号化したり抽象化したりしてラクしたいというそういった気持ちが働くことによります。そして、それはきっと人間が誰しも持っているものです。

だから、自分の状態や好き嫌いの完成をそのまま描き出せるという素直さは、ただそれだけですごいことなんだとおもうのです。

日常の作業療法場面では、絵画以外にも、革細工や、編物、縫い物、ビーズ細工、陶芸、紙細工などなど

数えきれないほどたくさんの創作活動を(時には本人が希望するままに)取り組んでもらうことがあります。

そういったときに抑圧された自己を解放したり、自己肯定感を高める練習をしたりするときには、ありのままのやり方で自由に結果を気にせず取り組んでもらうのが治療につながるなあと感じています。

もちろん「こうしなければならない」という思いや発想は、仕事や社会生活上、極めて一般的なものですし、大変重要なものであることは間違いありません。

しかし、それは自然界でのもともとの人間の在り方とは、大きくかけ離れた感性なのではないかと思うのです。

そうした感性から、少し距離をとって、創作活動という枠組みの中で自分自由に開放したり、その結果として出来上がる作品を肯定できること、賞賛してもらえることには大きな意味があると思っています。

それを通じて、いままで気づくことができなかった自分自身を客観的に知ることができたり、自分自身を開放する方法を知ったりできるところは、作業療法の哲学のすごいところなんじゃないかなあと思うのです。

余計なバイアスを通すことなく、現在の自分自身を表出できる方法を身に着けることができたなら、だれももっと自由に生きることができるんだろうなと、日々患者様と過ごす中で強く思います。

自分に出来るやり方で、自分なりにやったらいいを大切にするのが作業療法

作業療法のあり方としては、とりあえずやってみる

やってみせる。

うまく行ったらおっけー

うまく行かなかったら、

なぜうまく行かなかったのかと検討して

修正して

もう一回挑戦という

試行錯誤だったり

最近の流行で言えば

PDCAサイクルにあてはまるような

そういう一歩ずつ前進的なやり方で挑戦していくのが

良いんだろうなという感覚を得ております。

これって人生の基本ですよね。

何かやりたいことや、やらなければ行けないことがあったら

それに向かって

実践と修正を重ねていく訳でして。

そういう意味では、作業療法って特別な事をしている訳でないんだなあ

としみじみ思う次第です。

こんな話がたくさん出来るといいのだろうか。

臨床ベースの視点とは何か?専門性との関連から見るからみると。

今日、同じ職場の若手のコと割と深い話をすることがあり、
「そうそう、そこだよね大事なのは」
という話をしたのです。
いくつも。
そこで、話題になった、専門性についての話をシェアしたいとおもいます。
職場でとある人の評価がまっぷたつに割れているそうです。
前者は、自分も患者様にそういう関わりがしたいと言い
後者は、その人は患者さんをバカにしていると評するという。
有る意味で、真逆ともいえる評価を受けているらしいその人は
患者さんの特性をふまえて、うまく状況をコントロールし、納得を引き出しているようなのです。
当事者同士では、特に問題は起こっていませんが、後者の人々から見ると患者さんをバカにしていると映るらしいのです。
前者と後者をざっくりと分けると
前者は、当事者目線での臨床タイプ。理論より行動派
後者は、専門職目線での臨床タイプ。個別の実践よりも高度な理論を好むタイプ。
の人々がそんな評価をしているらしいです。
なるほどなーと思いました。
ひろえもんはもともと理論重視派だったのですが、改宗して実践がすべて派になりそうな感じな毎日です。
目の前の人に関係がある内容や、理論だけに取りあえず集中して、足りないところは都度学ぶという形が、臨床には適していると感じます。
結局誰のための臨床やそのスキルなのかという話でもあります。
また、その人がいかに優れた知識を持っていても、それを生かせる人間性がないと、空回りしてしまうだけだなーと思います。
専門性にとらわれすぎると、目の前の患者様が見えないです。
一体、誰のための、何のための専門性なのか、しっかり確認して必要な知識を取捨選択出来ないとダメだなーと感じます。

「成功には人間関係が大切」というハーバード大学の研究の重さと、作業療法的視点から研究を批判する人に思うこと

当たり前のことにエビデンスがあるということはとても大切だと思う。

たとえば、今回ハーバード大学が行った研究は次のようなもの。

「どのような男性が将来性があり仕事で成功するのか?」というテーマに対して、268人の男性を対象に「IQ」や「飲酒の習慣」などあらゆる角度から行われ、20億円という研究費と、75年間という長い期間が費やされた。

そしてその結果は、

「将来性」は、IQや生活習慣とは関係なく、幼少期に母親と温かい関係を築けていたかどうかに左右される

というものだったらしい。

これは、多くの人が、感覚的に納得できる内容だと思う。

しかし、今までそのことを学術的に研究し、きちんとエビデンスとして示した研究は無かったはず。

だからこそハーバード大学はそれを研究したのでしょう。

たとえば、「全てカラスは黒い」の様にいくら感覚的に当たり前で、当然の事に思われることでも違うことは良くある。(例外はアルビノ)

だから、感覚としての「当然」に学術的お墨付きがつくことには非常に大きな意味があると思う。

主体としての自分の感覚で正しいことが確実であっても、異なる感覚を持つ人に客観的に伝えるには、自分の言葉だけではどうしても弱い。

だからこそ、研究を行いエビデンスとして誰もが納得できる形で示す必要がある。

ちなみにこの事実は、テレビ番組で紹介されたらしい。

そして、コメンテーターの意見や番組の構成的には、この研究に否定的だったようです。

曰く

「そんなことに75年もかけるって、ハーバードも大したことないね」と呆れながらコメント (キャスター 小倉智昭)

「ハーバードの将来性がヤバイね」と皮肉った (タレント ダウンタウン松本人志

「簡単に言うと、両親が健在で、たっぷりと愛情を注がれたらできる男になる…」と20億円を費やした研究結果に首をかしげた (タレント ダウンタウン松本人志)

などなど。

研究の意義に対して、否定的に見るタレントが多かったようです。

そして、ひろえもんは、そのことを知って「きっとそれが研究に対する世の中の捉え方なんだろうなあ」と思いました。

皆が当たり前と思っていることに、証明の価値が無いと感じる人はきっと多いのだと思います。

ひろえもんは理系の科目が好きだったのですが、たとえば物理の運動方程式や、状態方程式などの極端な例でなくても、数学の簡単な定理の証明さえ、「そんなの当たり前」と軽んじる人が多いと、いつも感じてきました。

確かに、自分が実践するときには、必要なのは「これが正しい」と言える初期条件と結果の対応だけ。

必ずしも、プロセスを順を追って説明、または証明できる必要はありません。

しかし、誰もが納得できる施策や、その方向性を決める為には、明確な根拠を示すことが出来たり、その根拠を集めて研究を行うことにはとても大きな意味があります。

そうひろえもんは思います。

作業療法は、感覚的な「あたりまえ」やその積み重ねを根拠に実践をおこなっていますが、今回のことで改めて「それでええのかいな」と思ったので、ちょっと記事にしてみました。

個人の実践とは違う、他者への正当性の証明という次元に視点を移したときに「当たり前」を疑い、研究することにはとても大きな意味があるんじゃないのとおもうのですが、皆様いかがでしょうか。

参考:http://news.livedoor.com/article/detail/9252976/

人の為になることが、世のためになるとは限らないかもしれない

よのため、ひとのため。

ということばは、結構深いとおもいます。

世のためってのは、システムで。

人の為ってのは、感情論で。

その二つが重なるところを見極められると、人を幸せにする方向に世の中を変えていけるのかもしれません。

作業療法実践の為の学習における各学習項目の価値の理解の重要性。

この記事の方向性

「学校で学ぶことは、いつかは役に立つけど、それっていつかがあんまり分からないままに勉強してるよねっていう感覚」

の確認と、

「何処で役立つかは、分かっておいた方がいいですよね?」

という問いの確認

と、雑感。

今日の臨床での気付き

今更ですが、ひろえもんは精神科勤務なので、集団をもちいて作業療法を行っております。

で、今日も集団をつかったプログラムを実施しました。

集団で行う、ゲームをしたんですが。

で、ふと思った訳です。

こういう内容って学生時代はほとんど学校でやらなかったな。

と。

木工などの作業種目についての勉強というか実習はやった覚えがあるのですが、集団で出来るレクリエーションを考案して、それを実際にやってみるという体験の覚えが、とんと無い。

多分やっていないのだと思います。

学校時代を振り返って

そんな授業が在ったら良かったとまでは思いませんが、就職するまでにそういう技能が必要とされるということについて、精神科の授業を受け持つ先生方が教えてくれていればとはちょっぴり思いました。

ちょっぴりですけどね。

というか、もしかしたらやってるけれども忘れているだけって可能性もあるわけで、単なる不勉強の可能性もあるので何とも言えませんが、ひとまずそこは置きます。

たとえば、患者様になにかをしてもらうとき。

対象となる方へ、集団活動を提供する為には作業を分析する視点をもって、活動をいろいろな要素や面で考え無ければなりません。

(そこは、難しさやおもしろさの根源ともなるところでもあります。)

そして、その考える為の道筋が無いと、学校で学んだことも生きてこないと思うのです。

さもなければ、要素に溺れて、何をしたら良いか分からずに混乱を深めてしまいます。

上記の場合でいえば、集団を用いたプログラムを企画立案、実施するにはこんな考え方が必要だよってことです。

それがどの程度分かっているかは、勉強の姿勢にも大きく影響します。

思考の大枠が分かっていると、学校の要素的な授業に自分で意味付けがしやすくなって、モチベーションがわいてくるんじゃなかろうかという訳です。

学生時代をさらに思い返せば、意味も分からず暗記したこともおおいです。

そしてまた、それが役に立っていることもしばしばなんですよね。

ひろえもんは、人体構造学(解剖学)、正直嫌いでした。

しかし、それにしたって、当時はどんな場面で役に立つのかなんてさっぱりイメージできずにただひたすらに覚えていたなあと思います。

それは、使いもしないドイツ語の単語を一つ一つ覚えるのと同じ感覚で、何となくストレスを感じながら勉強した物でした。

でも、いま精神科で働いていても、患者様の身体的な苦痛などの訴えが、生理学的なものかあるいは心理的なものかについてある程度推察するときに、とても役立っている知識でもあります。

身障領域を専門とする方々には遠く及ばないでしょうが、それでもやっていて良かったなと思います。

と、同時に、先輩方の実感がもっとわかっていれば、もっと死ぬ気で勉強したかもな〜、などと思ったりします。

今思うこと

だから、先輩になった今、各知識のありがたみについて伝えて、モチベーションを上げていくことが、自分に科せられた仕事なんじゃないかと。

そんなことを考えました。

先輩となったいま、後輩くん達に伝えるべきことで伝えられることはどんどん伝えていきたいなと思います。